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ヤクザとの付き合いはNO

大阪府警の南署記者クラブで1年が経過したころ、社会部のデスク(部次長)から暴力団事務所を
警戒するように命じられた。

昭和54年(1979年)1月以降、三菱銀行の人質事件や三和銀行のオンライン詐欺事件のほか、
様々な事件・事故の取材を経験していたので、多くの警察官と親しくなることができた。

その前年、私は、当時最大の暴力団組織の「山口組三代目組長襲撃事件」の現場に居合わせたことも
あって、デスクは私を取材チームにいれたのだろう。

三代目組長襲撃事件の後、山口組は対立する暴力団に報復を展開したが、
わずか1か月で一方的に「終結宣言」。
それも神戸市内の組長自宅にマスコミ各社を招いてという異常さ…。
たしかに、その後の抗争事件は沈静化したように見えていた。

しかし大阪府警、兵庫県警の捜査員は、暴力団がこのまま大人しくしているとは判断しておらず、
主な組事務所の動きに監視を続行。
覚せい剤や売春のほか「みかじめ」と呼ばれる用心棒代などの違法行為を徹底的に摘発する態勢で
臨んだ。

現代とは異なり、私たち取材記者も大して恐れたり遠慮することなく暴力団幹部と接していたし、
組員と居酒屋へ入ったこともある。

大阪市内の南署や西成署管内には多くの組事務所があり、そのほかの市内各署管内にも組事務所が
散在していた。

大阪府警本部の刑事部捜査四課は暴力団捜査が専門で「マル暴担当」という隠語で呼ばれ、
捜査員の私服や風貌も暴力団員と見分けがつかないほどだった。

そんなある日、私は「マル暴担当」捜査員とともに南署管内にある山口組系列の有力な組事務所を
訪れた。組長はさすがの貫禄で、捜査員と親しく話していたが、私に対しては「ブンヤさんにしては、
ええ度胸やな」と凄みを含んだ声で睨みつけてきた。この時ばかりは足元がすくんだのを憶えている。
ただ、この組長はその後、神戸のホテルで対立する暴力団員によって射殺されてしまったが。

またある時、捜査四課員の口添えがあったことから、私は一人でキタ新地に近いビルの一室のドアを
開けた。私が社名を名乗ると、幹部らしい組員が苦笑いを見せながら、組長室に案内してくれた。
その部屋は予想外に広く、組長の席の背後に日の丸が掲げられ、その前に抜身の日本刀が2本飾られて
ある。組長の両脇に黒いスーツ姿の組員が立ち、席に座った私を見下ろしていた。

私が「大阪では、もう組同士の抗争はないのか」「警察が厳しいので資金源が苦しいのでは」といった
内容の質問をすると、この組長は「ワシらヤクザは任侠が命や」「お国のためやったらシノギ(資金源)は
気にしとらん」などと国粋主義めいた持論を自慢気に繰り返した。
そして「なあ、あんたもヤクザと付き合うのはやめとけよ」と真面目な顔でアドバイスをしてくれたものだ。

南署担当を外れてからも、知り合った組員と何度か酒を酌み交わしたことがあり、当時はやりだした
カラオケバーで、マイクを握ってヤクザの歌を歌ったこともある。
そのとき対立する組をテーマにした歌だということをうっかりして声を張り上げていると「おい、その歌だけ
はやめとけ」と数人から制止されたものだ。

その後「暴対法」(暴力団対策法)が施行されるまで、暴力団は社会の暗部で様々な動きを続けていたが、
私にとっても貴重と言える体験ができたと思う。

今では到底考えられないことだが、われわれ取材記者と組員の距離はかなり近しいものだった。
決して褒められるものではないにしても、社会の裏側の人間模様、奇妙なルールなどは、
忘れられるものではない。

ただし、ヤクザと親しくなっても一般人が得るものはほとんどないことを忘れてはならない。

作家 津島稜