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第十話「銅(あかがね)の巨人 住友理兵衛(3)」

「南蛮吹き」を会得したことで泉屋は繁盛したが、同時に同業者から大きな嫉妬を受けた。
彼らはその技術を盗もうと躍起になり、理右衛門はその防止策で悩んでいた。

相談を受けた義弟の嘉休は、自分にも覚えがある、と思った。
空源の興した涅槃宗は天皇の帰依を受け短期間に急成長したが、そのため他宗から排撃されて法難を受けた。

泉屋もこのまま手をこまねいていれば、同業者からあらぬ訴えを起こされることにもなりかねない、と嘉休は考えた。その前に何か手を打たねばならない。

「義兄さん、いっそこの機会に、『南蛮吹き』の秘法を同業者に公開してはどうですか。
そうすれば嫉妬どころか逆に、泉屋の名前は大きく上がるでしょう」

理右衛門は衝撃を受けた。まったく考えてもみなかった発想だった。
だがよくよく思いをこらしてみれば、自分一個の利益の為に「南蛮吹き」の研究をしたのではなかった。

日本の銅精錬業者がこの技術を知らないために、多くの銀が海外に流出し、明やオランダの商人をみすみす儲けさせていることに、義憤を覚えたためだった。

同業者がすべてこの技術を修得すれば、少なくとも日本の利益になる。
それで泉屋の利益が減ったとしても、余計な対策に気を遣わずに済む分、かえっていいのではないか。

理右衛門は決断した。その結果、同業者から感謝と尊敬を受け、泉屋の暖簾には大きな信用がついた。心配していた業績にも影響はなかった。今の栃木県で足尾銅山が発見され、国内の産銅量が急上昇したこともあって、仕事は捌ききれぬほど押し寄せた。

すべては義弟の助言のおかげだと、理右衛門は嘉休に心から感謝した。

嘉休はこれ以外にも幾つかの処世訓を遺し、それが住友家の家訓として受け継がれていった。
主なものを挙げておく。

・相場より安い品を持ち込まれても、商品知識がなければ決して買ってはいけない。
出所の怪しいものは、盗品だと心得よ」

・よく知らない者を家に泊めてはいけないし、編み笠でさえ預かってはいけない。

・他人と口論をしてはいけない。

・短気を起こしたり、乱暴な言葉を使ったりしてはいけない。

・掛け商いをしてはいけない。

これを読むと、嘉休は宗教者でありながら、同時に大変なリアリストであったことが分かる。
他人と安易に関わったり、信用したりすることを戒めているのだ。

住友は浮利を追わない手堅い経営で代々知られたが、それも嘉休の家訓が基になっている。
例えば江戸期の豪商はたいてい大名貸しで巨富を得たが、住友は違っている。

もちろん住友も様々な事業に手を出したが、その中心には常に銅があり、銅を中心として事業展開した。
現代風に言えば、得意分野に経営資源を集中して成功を収めたのだ。

蘇我家と住友家の絆の強さを窺わせる逸話がある。
理右衛門の長男理兵衛が、嘉休(住友政友)の娘のお妙と結婚して住友家に婿入りしたことは前回述べた。

理兵衛はお妙との間に一男一女をもうけたが、そのお妙が先に亡くなった。

それに続けて、お妙の兄で住友本家の富士屋書店を継いでいた庄兵衛も続けて世を去った。

この時、実父の理右衛門はすでに没していたが、義父の嘉休はまだ健在だった。
ここで嘉休は驚くべきことに、理兵衛と、庄兵衛の妻お亀を娶(めあわ)せた。

住友家の妻として家の奥を取り仕切るには、内情を知っている身内の方がよいのは分かる。
だが、それだけではないだろう。

理兵衛は婿養子だったから、お妙の死によって住友家の籍から抜け、実家の蘇我姓に戻ることになる。
それを嘉休は恐れたのではないか。

義兄の理右衛門がこだわった住友家と蘇我家の絆を、嘉休は何としても守りたかったのだろう。
この住友理兵衛から、実質的に住友家の歴史は始まるといっていい。

理兵衛は住友家に養子に入ったが、住友の名で実父と同じ銅吹き屋を営んだ。
蘇我本家は弟の忠兵衛が継ぎ、別の弟八兵衛も独立して銅吹き屋を始めていた。

理兵衛は、この住友・蘇我連合の統領として、亡父の事業をさらに発展させた。

理兵衛は長崎、博多、平戸に盛んに出張した。
外国の商人に直接銅を売って、代りに砂糖、薬種などを仕入れて、京都や大坂で捌くのである。
これは大きな利益になった。

それまでは銅を納める得意先は主に寺院だったので京都に本拠を置いていたが、こうなると商業の中心で港に近い大坂が諸事便利だった。理兵衛は、大坂進出を決断した。

まず内淡路町に店舗と銅の吹き所を置き、その数年後、本店を京都から大坂の淡路町一丁目に移転した。吹所もさらに、鰻谷ともう一か所に設けた。

銅鉱石は全国の鉱山から船で大坂に送られてくる。
それをいちいち京の吹き所に送っていては手間がかかるので、大坂ですぐに精錬して長崎や平戸に送る体制にしたのだ。

強力な競争相手を迎えた大坂の銅吹き屋たちの反応は、しかし好意的だった。
理兵衛の父の理右衛門が「南蛮吹き」の技術を公開したことを、彼らは覚えていたのだ。

こうして住友は、大坂の地に腰を落ち着けた。広さ約六百坪の吹き所では常に煙がもうもうと立ち込め、数百人の職人が分業制で忙しく立ち働いていた。

住友家は銅精錬業界の中では、技術的な宗家にあたっていた。
だから理兵衛が業界で主導的立場を占めたのも、自然な成り行きだったと思われる。

住友理兵衛の繁栄は、当時の大坂で比肩する者なし、とまで言われた。
だが住友家の歴史にとって決定的な発見があるのは、実はこの後のことである。