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第三話「義を先にし、利を後にせよ 下村彦右衛門(1)」

淀屋や鴻池のように、一時日本の富の過半を占めたと言われる豪商でさえ、時代の波に飲み込まれていった。

その一方、江戸時代に創業し現在に至るまで、数百年もの間存続している企業も少なくない。
旧財閥系でいえば、三井や住友がその代表格であろう。

その明暗を分けたのが何であったのか、論じるのは簡単ではない。

すぐれた経営戦略、時代を見通す眼、大胆な決断を下す勇気といったものは、淀屋や鴻池の創業者たちは
溢れるほど持ち合わせていたし、時代の変化への対応を後継者が誤った責任まで、創業者に負わせるのは
いささか酷であるかもしれない。

とはいえここで、時代の風雪に耐えて生き残った企業の例を挙げることは、意味のないことではあるまい。

心斎橋の大丸百貨店といえば、大阪の人間なら必ず一度は訪れたことがある場所だ。
関西学院大学や神戸女学院大学も手がけた、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計による重厚な洋風建築は、
歴史的価値も高く、長らく大阪のランドマークとして親しまれてきた。

大丸が誕生したのは、今から三百年前のことだ。
創業者の下村彦右衛門正啓(しょうけい)が、伏見で古着と呉服を商う小さな店を開いたのが始まりである。
一代で巨万の富を築き上げた人の例にもれず、正啓も若い時代に刻苦勉励した人だった。

だがその生涯にふれるまえに、まず下村家のルーツから語り始めよう。

下村家の祖先は代々摂津国の郷士だった。
そのうち名前が残っているのは、三好笑岩(みよししょうがん)に仕えて数々の武功があった下村市之丞
(いちのじょう)である。三好氏が没落した後、市之丞は信長の武将中川清秀に仕えた。

この中川清秀も凡庸な武将ではない。本能寺の変で信長が斃(たお)れた後、いち早く羽柴秀吉に味方して、
山崎で明智光秀を破るのに大いに功があった。
このまま出世街道をひた走るかと思われたが、そこに賤ケ岳の戦いが起こった。

信長の筆頭家老柴田勝家と羽柴秀吉の間の、天下取りの戦いである。
互いに防御を固めての対陣が長期間続いたが、佐久間盛政が秀吉の不在を衝(つ)いて強襲をかけたことで
戦局が動いた。

この時、清秀は多数の敵の包囲を受けて奮戦し討死した。そして市之丞も主君と命運を共にしてしまう。
戦さ自体はこの後、秀吉方が逆襲して大勝利を収めるのだが、市之丞の子孫は次の仕官口を見つけることが
できず、流浪してしまった。

伏見に住み着いたのは市之丞の孫の惣左衛門の代だった。
惣左衛門は大坂の陣が起こると豊臣方に馳せ参じたが、ここでも敗戦の憂き目を見る。
よくよく運のない一族だった。

大阪城落城後、惣左衛門はついに武士の身分を捨てて商人になった。
このような例は、当時の主家を失った武士たちによくみられることで、淀屋も鴻池も元をたどれば武士の血筋
である。

古着屋を始めたのは惣左衛門の息子の久右衛門で、この人物が正啓の祖父である。
京都東山の大文字が赤々と燃えるのを見て感動し、店の名を大文字屋と名付けた。

この頃、庶民の衣類はほとんどが古着であり、生活必需品として大きな需要があった。
久右衛門はなかなかのやり手で商売を広げた。

だがその息子、つまり正啓の父の三郎兵衛の代になって、家産は大きく傾いた。
三郎兵衛は豪快できっぷがよく、金銭に頓着しない性格だった。つまり、商売には向かなかったのである。
このため、次第に一家は困窮していった。

正啓が生まれたのは、元禄元(一六八八)年のことだった。
幼い頃から利発で優れた素質を持っていたため、家族はこの少年に期待した。

彼は三男だったが、長兄が早世し、次兄は気が弱く怠惰な性格で商売には向かなかった。
次兄が京都の宮川町という色街に質と貸衣装の店を出した時、正啓は父親から命じられてこの店を手伝って
いる。この頃から、商才をあらわしていたという。

彼が家業を継いだのは、十九歳の時だった。とはいえ、古着屋といっても実際は行商が中心だった。
正啓は伏見から京都まで三里(十二キロ)の道を、毎日重い荷物を抱えて通った。
京の町を一日中足を棒にして古着を売り歩くのである。

古着の利ザヤは決して大きくはない。
朝から晩まで働いても、かろうじて生活を支えるに足る稼ぐにしかならず、泥沼のような苦闘の日々が続いた。

しかし彼は大きな夢を持ち、決してそれをあきらめなかった。