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番外編「日本に実業界を創った男 渋沢栄一(1)」

岩本栄之助が中之島公会堂を寄付するにあたって陰ながら大きな役割を果たしたのが、
二〇二四年度発行の新一万円札の肖像に採用された渋沢栄一である。

渋沢を団長とする渡米実業団に参加した栄之助は、アメリカの富豪の社会貢献活動に刺激を受け、
帰国後渋沢に相談したことから、このプロジェクトが始まった。

大阪の政財界が協力したのは渋沢が準備委員に名を連ねたためだが、ところがこの話は、
渋沢の主要な伝記には載っていない。ある意味、そこが彼の凄みだろう。

渋沢はその生涯において、およそ五百の企業と六百の公共事業に関わった。
この程度のことをわざわざ記す紙数がないのだ。

それほどの男の知名度が近年比較的低いのは、彼の名を冠した著名企業がないからだと思われる。

明治後に一代で成功した実業家は、ほとんど例外なく事業を「私有」した。
そのため彼らの事業は、必然的に財閥化した。

三菱の岩崎弥太郎がその代表格だが、本稿で紹介した野村證券の野村徳七、
藤田財閥の藤田伝三郎などもその中に数えられるだろう。

ところが渋沢は、銀行、鉄道、船舶、紡績等、明治後に勃興した主要産業の設立と経営に数多く関わりながら、
事業そのものを「私有」しようとはしなかった。

この私心のなさは、論語の影響によるものらしい。渋沢は論語と算盤の両立を目指した。
これは言い換えれば、商道徳の確立、ということだろう。

企業が利益をあげ成長していくことが、社会全体の利益と一致しなければならない、ということで、
これは現代でも変わらぬ大きな社会的課題である。

もう一つ彼が生涯のテーマとしたのは、「官尊民卑」の打破だった。
江戸時代は武士と商人の間に厳然たる身分差があり、維新後も官の権威は絶対的で民の力は弱かった。

若い頃にヨーロッパを視察していた渋沢は、日本でも政府と対等な形で民業が発展しないと、
国全体の経済がいびつな形になると考えていた。

そのため、終始在野の実業家として日本経済の発展に尽くしたが、その生涯で抜群に面白いのは、
幕末から維新にかけての前半生である。

地方の農家に生まれた青年が、風雲の中でどのように志を抱き、成長していったか。
それは現代にも通じる貴重な成功物語である。

栄一は、武蔵国血洗島(ちあらいじま)村(現在の埼玉県深谷市)に生まれた。
この村は二万石余の小大名安部摂津守の所領で、利根川河畔にある五十軒ほどの小村だった。

米、麦の他、特産の藍葉の生産が盛んだった。また近隣には船着場があって、船客の乗降、物資の積込みや
荷揚げが多く、廻船問屋や旅籠が建ち並んでいた。

栄一の生家は村でも一、二を争う富農だった。
農耕、藍玉(あいだま)の製造・販売、養蚕の他に荒物商を営み、村人相手に小規模な質屋もやっていたらしい。

栄一の父は商売熱心なだけでなく、面倒見のよい性格で、近隣の人から慕われていた。
また学問を好む教養人でもあった。この点が後年の栄一に大きな影響を与えた。

栄一は隣村に住む親戚の尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)の許で漢学を学んだ。
惇忠の教育方針はユニークで、四書五経だけでなく、『通俗三国志』『南総里見八犬伝』などの娯楽物も
読ませた。
こういう乱読、多読の中から、栄一は読書の楽しみを覚えた。

また幼い頃から従兄の渋沢新三郎に神道無念流の剣術を学んだ。
新三郎の師が川越藩剣術師範役の大川平兵衛だったことも、幸運なことだった。

このように栄一は農民階級に生まれながら、漢学、剣術など、中下級の武士とさほど変わらない教育を
受けて育った。これはよほど恵まれたことだった。

渋沢家では、近隣の村々から藍葉を買付けて、藍玉を製造していた。

まず買い付けた藍葉を発酵・熟成させて、藍染めの染料を作る。
それを臼で突き固めて乾燥させ、運搬に便利なように加工したものが藍玉で、これを紺屋に販売する。

栄一は十四、五歳の頃から、藍葉の買付けと紺屋への営業を任されていた。
得意先は遠く上州(群馬県)や信州(長野県)にまで及んでいた。

栄一は当時有名だった阿波(徳島県)に負けない藍を造りたいと考え、近隣の農家を接待する際、
藍葉の品質に応じて席次を設けるなどして、競争意識を高める工夫をした。

このように栄一は、ごく若年の頃から、後の商才の片鱗を見せていた。

その栄一が十七歳の時に、生涯の転機ともいうべき事件が起こった。
代官から呼びつけられ、五百両の御用金を命じられたのである。

当時の大名は手元不如意になるたびに、富商や富農に御用金を命じた。
それは封建時代の習慣でやむをえなかったが、その態度が問題だった。

代官の出頭命令が届いたとき、父がたまたま不在だったため、栄一が父の名代として赴いた。
代官の命令に対して栄一は、父と相談の上改めて返事をする、と答えた。

筋を通しただけで、逆らうつもりはなかった。
だが、代官は栄一を面罵して、この場ですぐに引き受けるよう強く迫った。
栄一は次第に激しい怒りを覚えた。

(五百両もの大金を払わせるのに、この頭ごなしの態度は何だ。それも返事を少し待ってくれと言っているだけ
なのに……。他人のカネを自分の物とでも思っているのか)

栄一は意地になって、その場を頑張りとおした。
だが帰宅して父にそのことを告げると、父はすぐに金蔵から五百両を出して、自ら代官所まで届けに行った。

その姿を見た時栄一は、今の世の中は間違っている、と強く思った。
この日から、武士と農民という身分制度を無くすことが、栄一の人生の大きな目標となった。