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第四話 「種を蒔いた人 緒方洪庵(6)」

嘉永六(一八五三)年、アメリカのペリー率いる艦隊が浦賀に来航して、幕府に開国を迫った。
この事件は日本中に大きな衝撃を与えた。

洪庵もその例外ではなかった。洪庵はこれまで一介の医師として生きることに満足していた。
弟子たちにも、オランダ医学を学んだ後は、郷里で開業することを望んでいた。(だが、それでいいのだろうか)

洪庵の心の中で、疑問はふくらんでいった。ペリーの圧力に屈した幕府は、翌年日米和親条約を結んだ。
もはや日本一国だけで生きていける時代ではなくなっていた。

(これからの時代に必要になるのは、広く西洋の学問全般についての知識と見識を持つ人間ではないだろうか)

そう考えた洪庵は、広く西洋学者の養成を目指すべく、適塾の教育方針をあらためた。

その当時の代表的な弟子が、福沢諭吉だ。
『福翁自伝』によれば、適塾には厳しさだけでなく、自由闊達な気風があったという。

オランダ語の書物を翻訳するだけでは飽き足らず、科学実験も盛んに行っていた。

例えば当時の日本では、鉄に直接メッキをする技術がなかったが、書物を読んで塩酸亜鉛を作り、
それで錫メッキを施すことに成功した。

また硫酸やアンモニアの抽出も試みた。
塾生の一人が誤って硫酸を被ってケガをしたり、アンモニアの臭気がひどくて、川の上に船を浮かべて実験を
するなどしている。

こういった実験は、師の洪庵の理解と許しがなければできなかったことだ。

適塾では確かに語学学習に力を入れたが、洪庵は単なる翻訳者を養成しようとしたのではない。
外国語を通じて、西洋文明の本質を探究できる人材を育てようとしたのである。

福沢は適塾で塾頭を務めた後、江戸へ出て蘭学塾を開いた。
折しも日米修好通商条約によって開港した横浜を訪れ、オランダ語がまったく通じないことに衝撃を受けた。

福沢は世界の主流が英語であることを知り、一念発起して英語学習を始めた。
すでに適塾でオランダ語をマスターしていたから、比較的容易であった。

福沢はその後、万延元年の咸臨丸での渡米と、文久元年の遣欧使節と、二度にわたって洋行している。
その時、工場などを見学しても特別感動は覚えなかった。
すでに適塾でオランダ語の書物を読み、科学実験などもしていたからだ。

その代りに、欧米社会を動かしている普遍的原理に興味を持ち、それを知ろうとした。
やがてそれが、LibertyとRightであることが分かり、自由と権理(権利)と訳した。

帰国後出版した『西洋事情』は大変な評判を呼んだ。
一方、当時の日本では尊王攘夷運動の嵐が吹き荒れており、洋学者の福沢は何度も命を狙われた。

やがて時代は、薩長を中心とする倒幕運動と、戊辰戦争へと進んでいく。
鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜は、江戸に戻って恭順の姿勢を見せ、官軍に江戸城を明け渡した。

しかしそれに不満を持つ一部の幕臣が、彰義隊を結成して上野の寛永寺にこもった。

官軍による上野の総攻撃が始まった時、福沢は芝の新銭座(しんせんざ)の慶應義塾学者で、ウェイランドの
『経済学原論』を講義していた。

上野と新銭座の間は、わずか二里(約八キロ)である。
上野の方角から銃声が聞こえてくる。
塾生たちの間に動揺が広がった。

数奇なことだが、この時江戸城の御用部屋に端座(たんざ)して、上野攻めの総指揮を執っていたのは、
福沢の同門にあたる長州の大村益次郎だった。

彰義隊の抵抗は激しく、官軍は苦戦していた。若い参謀たちがじりじりする中、大村は泰然としていた。
掌にのせた懐中時計が午後一時を指した時、大村は伝令を呼んだ。

「佐賀藩の隊長に、アームストロング砲を発射するよう伝えよ」

英国の開発したこの大砲は当時世界でも最新式であり、それを藩軍の洋式化に熱心だった佐賀藩が所有して
いた。むろん大村は、その威力を承知していた。

やがて上野の方角から凄まじい砲声がとどろいた。これが勝敗の分岐点になった。

「先生、万が一に備えて、我々も避難した方が良くはありませんか」

新銭座の慶應義塾では、たまりかねて塾生の一人が叫んだ。福沢はそれを一蹴した。

「こんな戦争なんざ、三日と続きはしません。放っておきなさい。それよりも大切なのは学問です。いいですか、
諸君の仕事は、この戦争が終わってから始まるのです。慶應義塾は一日たりとも休むつもりはありません」

あたかも新しい時代を形作る精神が、この瞬間に凝縮されたかのようだった。

もっとも、この時すでに、緒方洪庵はこの世の人ではない。
福沢が文久遣欧使節から戻った翌年、江戸の自宅で然喀血(かっけつ)し、まもなく息を引き取った。
享年五十四歳。

晩年、洪庵は幕府からたびたび奥医師に召されていた。
これは将軍家の脈をとる立場であり、医師として最高の地位だったが、洪庵はこの打診を何度も断っている。

もともと身体が弱かったうえに、すでに老齢にさしかかっており、住み慣れた大坂の町を離れるのは気が
進まなかった。

ところが、江戸蘭学界の大御所伊東玄朴のたっての勧めと、幕府の命を受けた足守藩主からの要請に、
ついに断り切れなくなった。

長年在野の医師・学者として活動を続けてきた洪庵にとって、人生の最後の瞬間に最高の出世を果たしたこと
が、果たして幸福なことであったかどうかは分からない。

ただその死後も、洪庵が手塩にかけた弟子たちは各地で活躍を続け、明治後の新時代を支えた。
洪庵が未来に向かって蒔いた種は、見事に芽吹いたのである。

(終)