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第四話 「種を蒔いた人 緒方洪庵(5)」

「適塾に入門すればオランダ語がモノになる」

そういう評判がたち、洪庵の許には全国から入門を希望する数多くの若者が訪れた。
洪庵は医学を学ぶ前提としてオランダ語を重視したが、その教授法には独自の工夫をした。

まず文法書をもとにした体系的な学習法をとった。これは坪井塾での影響だった。
そして能力別のクラス編成と、生徒が生徒を教えるシステムを取り入れた。

適塾には最盛期には百人を超える塾生がいたが、洪庵はそれをおよそ九等級に分けた。
洪庵は最上級のクラスにのみ講義し、残りは塾生のうちの上級者が下級者を教えた。

進級は月に六回の輪講の成績で決めた。
塾生が交代で蘭書を会読し、割り当て分をうまく解釈で来たかどうか、あるいは生徒同士の討論の勝敗に
よって、点数を付けた。

数十人いた住み込みの塾生は、畳一畳ほどの空間に机と寝具を置いて起居していたが、この場所も成績に
よって決められた。優秀な者はどんどん居心地のよい場所に移動していく。
こうなると、死に物狂いで勉強せざるを得ない。

塾内には、当時貴重だった蘭語の辞書が置いてあるヅーフ部屋があったが、輪講の前夜ともなると、
その部屋の明かりが終夜消えることはなかったという。

もちろん、教授法の工夫だけで、適塾から数多くの人材が輩出されたわけではない。
洪庵には独特の威厳と人間的魅力があった。

例えば江戸の坪井信道から息子の信友(しんゆう)を託されたことがあった。
ところが信友が入門直後から遊興を繰り返したため、洪庵は厳しく責(しっせき)し破門している。

恩師の息子といえども、特別扱いしなかったのだ。
そして後に反省した信友が詫びを入れてきた時、過ちを改めることを条件に許している。

このように洪庵は、厳格さと寛容さを併せ持った人格であった。だから塾生たちが心服して付いて行ったのだ。

洪庵は学者としても、多くの翻訳を遺している。
そのうち最大のものは、『扶氏経験遺訓(ふうしけいけんいくん)』だ。

原著はベルリン大学教授フ―フェルトが、生涯の臨床経験をまとめた内科書だ。

人体機能の障害や疾病を体系的に分類し、それに対する具体的な処方を記してあるのが特長で、
オランダ語のテキストを一読した洪庵は感激し、翻訳を決意した。

本編二十五巻、薬方編二巻、附録三巻、全三十巻という膨大なもので、翻訳から出版の完了まで足かけ
二十年にわたる大事業だった。

ヨーロッパの最新の医学書の翻訳と出版は、本来なら国家的事業として行うべきものであった。
事実、幕府や諸藩は、兵学書や技術書の翻訳などは積極的に行っていた。

しかし医学までは手が回らなかったか、関心がなかった。
それを門弟の協力などはあったといえ、洪庵がほとんど独力で成し遂げたことは驚嘆すべきことだった。

またオランダの医学書のコレラの項目を翻訳した『虎狼痢治準(ころりちじゅん)』は、
コレラの流行に際して緊急出版したものだ。

もっとも、コッホがコレラ菌を発見するのは明治十七年のことだ。
洪庵の当時は、まだ欧州でもコレラの治療法が分かっていなかった。
このため、せっかくの翻訳も決定打にはならなかった。

医師としての洪庵の業績を語る時、大坂除痘館(おおさかじょとうかん)の開設は欠かせない。

天然痘は死亡率が高い上に、治療法がなかった。とくに抵抗力の少ない子供の命を数多く奪っていた。
洪庵自身も幼時に罹り、生死の境をさ迷っている。

もっとも天然痘については、欧州でジェンナーがすでに種痘を発見していた。

これは牛の天然痘を人間に感染させ、天然痘への免疫をつくる方法だ。
接種を受けた人間に生じたカサブタや膿は、痘苗(とうびょう)といい、これを次の接種に使う。

種痘自体は、オランダの文献によって日本にも知られていたが、赤道を越える長い船旅の間に痘苗が
劣化してしまうために、入手が困難だった。

そのために船上で子どもたちに種痘をし、そのカサブタと膿を次の子どもに接種しと、痘苗を植え継ぎながら
ようやく日本に種痘を伝えることができたのだ。

苦心の末に長崎に到着した牛痘苗は、蘭方医たちのネットワークによって日本各地へと伝えられていった。

洪庵も早い段階からこの情報を入手し、同志たちと大坂除痘館を設立した。
設立に当たって、医は仁術という立場から、私利私欲のために利用しない、という誓いを立てた。

もっとも、種痘の普及には苦労が絶えなかった。
当時はまだ西洋医学への偏見があり、種痘を受けると牛になる、などと言われた。

痘苗は時間を置くと劣化して効力がなくなるので、接種を続けなければ痘苗が途絶えてしまう。
そのため初期には、お金を払って貧しい子供を集めることもあったらしい。

このような洪庵を中心とする大坂の医師たちの努力によって、種痘はやがて関西一円に広まり、多くの子ども
たちの命を救った。

そんな折、日本中を驚かす出来事が起こった。ペリー来航である。時代は大きく動こうとしていた。