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第四話 「種を蒔いた人 緒方洪庵(2)」

洪庵は大坂で長く医師を開業していたため、大坂の町人という印象が強くあるが、出身は備中国(現在の岡山
県)の足守(あしもり)藩で、れっきとした武士の家系である。

とはいえ、決して裕福な家庭環境だったわけではない。
小藩に生まれたが故の貧しさがあり、また次男であったため、将来は家を出て自立することが求められていた。

その中で洪庵はどのような少年時代を送り、なぜ医師を志すようになったのだろうか。
今回はその足跡をたどってみたい。

緒方洪庵は、文化七年(1810年)、足守藩士の佐伯惟因(さえきこれより)と、その妻のきょうの間に生まれた。
姉一人、兄二人(一人は幼没)の末っ子である。

父親の惟因は藩主の内用を務め、財務・会計担当の諸役を歴任した能吏だった。
こう書くと恵まれた家柄のように思えるが、そうではなかった。

足守藩はわずか二万五千石の小藩で、しかも累積赤字が十一万四千両もあった。
米一石を金一両で換算すると、二万五千両の歳入に対してその四倍以上の借金があったことになる。
完全な財政破綻状態である。

そのため藩では、藩士の禄の半分近くを召し上げていた。

洪庵が生まれた当時、惟因は四十俵四人扶持、おおよそ米二十石相当だったが、実際に支給されたのは
その半分に過ぎなかった。暮らしは当然ながら苦しかった。

洪庵は末っ子で、家督は兄の馬之助が継ぐことになっていた。
この当時の武家の次男坊には大まかに言って、養子の口を探すか、一生部屋住の身で終わるかの選択しか
ない。

中には剣術や学問の才能をあらわし、独立して一家をなす者もいたが、それはごく一部に過ぎない。

とくに洪庵は生まれつき身体が弱く、武道には向かなかった。となると、
学問に精進するしかないが、ここでも、貧窮の小藩という環境は不利だった。

足守藩にもかつては藩校があり、藩士の次男、三男も入校できたのだが、財政赤字のため洪庵の頃には廃止
されていた。貧しい家庭であったから私塾に通うのも無理で、漢文などの基礎教養は、父親から教わった。

そういった中で、洪庵が医学を志すきっかけとなった大きな事件が立て続けに起こった。
一つは天然痘とコレラの流行であり、もう一つはシーボルトの来日である。

これらを一つずつ見ていこう。

天然痘は、古くは疱瘡(ほうそう)とも呼ばれ、渡来人によってもたらされたと考えられている。
高熱を発し、全身に膿(うみ)の出るできものが生じる。

奈良時代から何度も大流行したが、決定的な治療法はなく、死亡率が二割から五割にもなるという死病だった。
とくに抵抗力の弱い子供の死者が多かった。

洪庵も幼い頃に、兄とともに天然痘に罹(かか)っている。
さいわい二人とも一命を取りとめたが、この体験はのちの洪庵の内面に大きな影響を与えた。

一方コレラが日本に初めて上陸したのは、洪庵が十三歳の夏だった。

激しい下痢と嘔吐の症状が数日続き、急速な脱水症状のために死に至る。
人々はこの病気を「三日コロリ」と呼んで恐れた。

当時はコレラ菌の存在も知られておらず、患者を隔離するという防疫上の発想さえなかった。
流行が自然に終息するまでの間、大坂では月に数千人が亡くなった。

その噂は岡山まで届いた。
(人のいのちは、こんなにもはかないものなのか)

子ども心に、洪庵は痛感した。
(どうにかして、病気から人を救うことはできないのだろうか。もし、そんな道があるのなら、自分は一生かかって
も、その道を究めたい)

当時の日本の医学は漢方中心で、伝染病にはまったく無力だった。
洪庵の視線が、より進んだ西洋の医学に向けられたのは、当然だった。

当時、唯一の貿易港である長崎から、オランダ語の書物という形で西洋医学が流入していた。
それを前野良沢、杉田玄白らが翻訳したことから、蘭学が始まった。

さらに、洪庵が十四歳の時にシーボルトが来日した。
これまで書物でしか知らなかった西洋医学を、直接学ぶ機会が生まれたのである。

優秀で情熱あふれる若者が、全国からシーボルトの許に集まった。
その中には備前の児玉順蔵、美作(みまさか)の石坂桑亀(そうき)という足守の近隣の者もいた。

彼らは帰国して、それぞれ郷里で開業した。このうち石坂桑亀は、後に足守藩主の侍医となっている。

「オランダ医学はすごい」「漢方では治らなかった患者も、シーボルト先生の治療を受けたら治った」
そういった評判が、洪庵の許にも聞こえてきた。

若い洪庵の胸に、オランダ医学への憧れが、ふつふつとたぎり始めた。