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第四話 「種を蒔いた人 緒方洪庵(1)」

淀屋橋から北浜にかけての一角は、大阪の金融と商業の中心地である。

古くは江戸時代の初めに、豪商淀屋が土佐堀川に橋を架け、その橋のたもとで米相場を始めたことから、
この町の繁栄が始まったとされる。

明治後、薩摩の五代友厚が発起人となって、北浜に大阪株式取引所が設置されたことが、金融センターとしての
この街の性格を決定づけた。

その後、街としての賑わいは、郊外の梅田、難波へと移っていくが、大阪の老舗のビジネス街としての地位は、
いまだに変わらない。

さて、その一角、近代的なビルやお洒落なカフェが立ち並ぶ界隈から少し裏に入ったところに、年を経た一軒の
町家がある。

二階建てのしっかりした造りで、木造の壁はさすがに古びているものの、漆喰は塗りなおして鮮やかに白い。

その建物の名は、史跡適塾。
幕末の蘭学者であり医師であった緒方洪庵(おがたこうあん)の開いた私塾である。

現代の感覚で見ればまことにちっぽけなこの建物から、近代日本を形づくった何ものかが生まれ、
いまも生き続けている。

それを学問的な系統で表現するなら、一つは洪庵の息子の維準(これよし)をはじめ門下生たちが中心となった
大阪医学校の流れであり、これは大阪帝国大学医学部に発展し、戦後は大阪大学医学部となった。

そしてもう一つは、洪庵門下の福沢諭吉が創設した慶應義塾大学であり、現在もなお各界に人材を輩出し
続けている。

その意味でここは、この二つの学流にとって源流にあたる場所である。
ここで地に落ちた最初の一滴が、滔々(とうとう)たる大河になったのだ。

適塾の門下生たちの中には、近代日本の建設に加わった多くの名前がある。

例えば先ほども挙げた、福沢諭吉は、明治を代表する教育者、啓蒙思想家である。

中津の下級藩士の家に生まれた福沢は、適塾でオランダ語を修め、その実力が認められて徳川幕府に
仕えた。
咸臨丸での渡米など、比較的早い段階で欧米諸国を見聞できたのは、適塾で磨いた語学力と見識のため
だった。

明治の近代陸軍の基礎を造った、長州藩の大村益次郎も外せない。

大村はもと村田蔵六といい、長州の村医者だった。
適塾には西洋医学を学ぶために入塾し、たちまち塾頭になった。
福沢同様、その語学力を買われて幕府に仕えたが、木戸孝允に見出されて長州に復帰した。

大村は単に西洋の兵書を翻訳するだけでなく、その本質をつかんで実践することができた。
彼は長州藩に近代兵制を取り入れ、上野の彰義隊攻めでは官軍の事実上の司令官として指揮を執った。
惜しくも、明治二年に暗殺。

さらに、越前の橋本左内がいる。

彼は若くして亡くなったために現代ではさほど名前が知られていないが、若き日の西郷隆盛の親友であり、
西郷をして「左内にはかなわない」と言わしめた人物である。

二十四歳の時に、越前の松平春嶽の側近に抜擢され、諸藩にその名を知られた。
だが将軍後継問題に介入したことを、幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)にとがめられ、安政の大獄で
刑死した。

彼は開国による西洋の先進技術の導入を軸にした新国家構想を持っていたが、
その根底にあったのは、適塾での蘭学であったと思われる。

大鳥圭介も面白い人物だ。彼も適塾では医学と語学を学んだが、幕府では洋式歩兵の隊長となった。
戊辰戦争では最後まで幕府方に付き、奥州から函館五稜郭まで転戦した。

降伏して、維新後は明治新政府に仕えた。
日清戦争直前に朝鮮公使として赴任したため外交官の印象があるが、実際は技術系官僚としてキャリアの
大半を過ごした。

これ以外にも、函館五稜郭の戦いで、敵味方を問わず戦傷者を治療し、維新後は貧民救済に尽くした高松凌雲
(たかまつりょううん)。

日本赤十字社の創立者で農商務大臣などを歴任した佐野常民(さのつねたみ)。

内務省の初代衛生局長につき、衛生行政に尽力した長与専斎(ながよせんさい)など、枚挙にいとまがない。

幕末に数多くの人材を輩出したという意味で、適塾は、吉田松陰の松下村塾と比肩されることもある。

だが洪庵はあくまで学者であり医師であって、松陰のような激しい情熱を持った革命家ではない。

ではいったいなぜ、その門下から、これだけの情熱を持った人材が輩出されたのだろうか。
その答えを出すために、緒方洪庵の生涯をたどりたい。