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第二話 「大胆なるイノベーション 鴻池新六(4)」

「この際、思い切って酒造りから手を引こうと思う」

正成がそう発言した時、居並ぶ大番頭、中番頭たちは、ほとんど驚倒(きょうとう)せんばかりだった。

「お、お父上が苦労を重ねて諸白(もろはく)を造られ、そのおかげで鴻池はここまでこれたのではありません
か。それを、そんな……」

始祖新六は数年前に亡くなっていた。だからこそ、思い切ってこれまでのやり方を改めたかった。

「確かに、いまの鴻池があるのは、亡き父上と諸白のおかげだ。ただ、考えてほしいのだが、酒造りには貴重な
米を大量に使わねばならない。米の飯を食えぬ者もおるというのに、もったいないことだとは思わないか」

「さあ、それはそうでございますが」

「米が不作の年にはどうする。飢死にする人もおるのに、米を使って酒を造るわけにはいくまい」

実際、のちの時代のことだが、幕府は清酒の生産量を半分に制限したり、酒の売価の半額の酒税を課したり
するなどの政策をとっている。

おそらく正成は、米の生産量によって酒の生産量も制約される、という現状を冷静に捉え、そこにマーケットと
しての成長限界を見たのだろう。

さらにもう一つ、鴻池の技術的優位も失われつつあった。
灘などの酒蔵が、鴻池に遜色のない酒を生み出し、続々と江戸へ送るようになっていたのだ。

正成の決断は、これらを総合的に判断した上でのことだった。

もっともその決断は、必ずしも十分に理解されなかったようだ。
実際に酒造業を廃業したのは、彼の孫の三代目善右衛門宗利(むねとし)の代だった。
酒造業がまだ利益を上げているうちは、廃止は容易ではなかったのだろう。

とはいえ、正成の決断をきっかけに、鴻池の事業は両替商へと大きく舵を切ることになった。

正成は比較的早く隠居し、次男の之宗(ゆきむね)に家督を譲った。彼の性格は温厚篤実で、新六・正成の
二代が築いた鴻池の基盤を、着実に発展させた。いわば守成の功のあった人だ。

彼の時代に、鴻池は天王寺屋五兵衛らと並んで、十人両替の一人になっている。
これは両替商の元締めであり、幕府の公用も務める立場だ。
このことからも、之宗が凡庸な人間でなかったことが分かる。

その之宗も早くに隠居したが、後を継いだ息子の宗利はまだ幼く、実際は祖父の正成と父の之宗が後見して
鴻池家の運営に当たっていた。

その正成と之宗が相次いで没した時、宗利はもはや三十を過ぎ、鴻池を背負って立つのに不足はなかった。
宗利は英邁豪胆で、鴻池のビジネスモデルを完成させた人物である。

彼の業績は数多いが、まず大名貸を大きな収益源に育て上げたことが挙げられる。
元禄年間には尾張、紀州といった御三家もふくめ、三十二の藩に貸付をしていた。

そのうち岡山藩の場合は、蔵元(くらもと)と掛屋(かけや)も兼ねていた。
蔵元は藩の蔵にある年貢米の管理、掛屋はその売却代金の管理だったから、事実上、藩財政を一手に握って
いたのだ。

大名貸の場合、利子だけでおよそ十年で元が取れたというから、かなりの高利だ。

その上、貸付にあたっては名字帯刀を許され、扶持米(ふちまい)が与えられた。
鴻池の場合、扶持米だけで年間数千石の収入があった。

しかしその反面、貸し倒れの危険も大きかった。
扶持米を貰うことで形式的には主従となっているから、踏み倒されても泣き寝入りするしかなかった。
淀屋が取り潰されたのも宗利と同時代だった。

「元金はお殿様に差し上げたつもりでよいではないか。毎年の利子さえしっかり払っていただければ文句は
ない」

宗利はそう割り切った。
その一方で利子の返済が滞った大名には、他の両替商と示しあわせて、新規貸出を一切停止した。

当時の大名は参勤交代の出費などもあって、慢性的な財政難だったから、鴻池に頭を下げて利子だけでも
払い続けるしかなかった。

大名貸で巨額の資本を貯えた宗利は、それを新田開発に投資した。
ちょうどその頃、大和川付け替えの大工事が終了していた。

大和国(現在の奈良県)に水流を発する大和川は、かつては河内平野を北上し、淀川に合流した後、西進して
大阪湾に達していた。そのため河内平野では水害が多かった。

付け替え工事の結果、大和川は河内の南部を西進して大阪湾に達することになり、河内平野の巨大な池が
干上がった。その跡地を田地として開発することになったのだ。

鴻池の請負ったのは、新開池という周囲八キロの巨大な池の跡地で、その工事の規模、田地の面積は群を
抜いていた。工事に要した三年間、宗利は雨の日も風の日も大坂から駕籠に揺られて三里の道を通い、
自ら工事を監督した。

鴻池新田は田畑あわせて百二十町歩(現在の約百二十ヘクタール)という広大なもので、田が三、畑が七の
割合だった。田地の石高は約九百石。

しかし畑にはすべて換金作物だった木綿を植えていたから、実際の石高以上の収益が上がっていた。
一説には木綿は米の五倍の価値があったという。

この結果、鴻池は大名貸に加え、地代という安定収入を得ることになった。

新田完成を見届けた宗利は、もはや晩年を迎えていた。
彼は最後の力を振り絞って、鴻池のビジネスモデルの総仕上げに取り組んだ。