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第七話「夢をビジネスにした男 小林一三(6)」

西宮・神戸間の路線敷設権を持つ灘循環電軌株を箕有電鉄が取得することを、阪神電車はいったん了承した
が、箕有が本気であることを知ると即座に手を打ってきた。

もちろん、正面切って手のひらを返すわけにはいかない。
そこで灘循環線買収を決議した箕有の株主総会を無効とする訴訟を、阪神の息のかかった株主を通じて
起こしたのだ。

この寝技は、じわじわと箕有の体力を奪った。
株の取得に十六万円を費やした上に、路線建設にも莫大な費用がかかる。
しかも、当面建設に取りかかれないのだ。

事業自体は順調だったが、この時箕有電鉄は、収益規模を明らかに超えた多額の投資によって、
経営的には破綻寸前だった。

一三はまたも金策に走り回った。
かつての文学青年はビジネスの修羅場で鍛えられ、筋金入りの男に変わっていた。
だがその額には、深い皺が刻まれていた。

とはいえ、文学への夢を喪ったわけではなかった。
多忙の合間を縫って一三は少女歌劇に没頭し、脚本や作詞の筆を執った。
ある意味で夢こそが、ビジネスの原動力だった。

この時の危機は、船成金の岸本兼太郎から六分五厘の低利で、三百万円もの巨額融資を受けることで
乗り切った。一三はその恩を生涯忘れなかった。

資金面で一息ついたところに、朗報が続いた。
灘循環線建設の認可と、総会決議無効の裁判の勝訴である。
この機会を捉え、一三は一気に攻勢に出た。

まず社名を「阪神急行電鉄(略称阪急)」と変えた。
阪神の下にあえて「急行」を付けたのは、阪神よりも早く列車を走らせるという意味であり、一種の挑戦状だった。

事実、神戸本線開通後、阪急電車は大阪・神戸間を最速三十五分で結んだ。
それに対して阪神電車は六十二分かかっていた。

もっとも、当時は阪神電車が通る海岸沿いの地帯が、一番開けて人口も多かった。
阪急沿線が山の手と呼ばれるようになるのは、もう少し後のことである。

大正七年から九年にかけて、阪急には社史を画する出来事が相次いだ。
少女歌劇では、東京公演の成功と宝塚に歌劇専門の劇場を完成させた。

次に、現在の神戸本線が全面開通した。
これによって阪急電車の運賃収入は以前の倍以上に伸び、先発の阪神電車に匹敵する規模になった。

さらに梅田に阪急ビルをオープンさせた。
一階がマーケット、二階が食堂で、コーヒー付き三十銭のライスカレーが評判になった。
これが後の阪急百貨店である。

当時の百貨店は、白木屋にしろ三越にしろ、すべて呉服屋から始まっていた。
商品についての専門性が非常に高く、鉄道会社が百貨店を経営するなど誰も思いつかなかった。

だが、毎日十数万人もの人が集まる立地を利用しない手はない。
一三は高級品だけでなく大衆向けの商品も置くことで、ターミナルデパートという新しい業態を創ったのだ。

時は流れ昭和になった。一三の活躍の舞台はもはや関西に留まらない。
池田成彬に請われて東京電燈の経営再建にあたったことで経営者としての知名度は全国レベルになった。

東京宝塚、すなわち東宝も急成長した。
日比谷の一等地に観客席三千の東京宝塚劇場を開場したのを皮切りに、日比谷映画劇場、日劇、有楽座と
次々と座館を増やしていった。

そして次に映画の配給に乗り出す。最後は制作だ。
新興の東宝と老舗松竹との間で、長谷川一夫の引き抜きなど、映画史に残る数々の事件が起こったのも
この頃のことである。

一三は野球にも関心があった。
現在の夏の甲子園大会のルーツである全国中等野球大会は、もともと朝日新聞と阪急の後援で、豊中球場で
行われたのが最初である。

これは結局、甲子園に大球場を建設した阪神電車に奪われてしまうが、
その阪神がプロ野球球団「大阪タイガース(のちの阪神タイガース)」を設立すると、
一三はすかさず「大阪阪急野球協会(のちの阪急ブレーブス)」を設立して対抗した。

やがて時代は黄昏れていく。
一三は近衛文麿内閣に頼まれ一時商工大臣を務めたが、統制経済に向かう時代の流れを如何ともしがたく、
辞職を余儀なくされた。

滅私奉公の掛声の中で、少女歌劇も映画も野球も戦雲の中に飲み込まれていった。

やがて敗戦。焦土の中から日本は不死鳥のように蘇った。焼け跡に必要なのは夢だった。

人々はまたかつてのように少女歌劇に夢中になり、映画を貪るように見て、阪急百貨店のカレーライスや
ソーライス(ライスにウスターソースをかけたもの)を掻き込んだ。

一三の仕事は、多くの人々の暮らしと心を豊かにした。
その数々のアイデアは、彼が文学と芸能を愛した青年だったがゆえに、心に思い描くことができたのだろう。

だが同時に、三井銀行で不遇に甘んじながら業務に精励した十数年がなければ、夢は夢として終わり、
陽の目を見ることはなかったのではないだろうか。

その意味で、人生に何一つ無駄はなかった。
作家を目指した文学青年も、仕事の鬼と言われた実業人も、どちらも同じ小林一三だったのである。

一三は日本と阪急グループの復興を見届け、昭和三十二年に八十四歳で亡くなった。

それから約半世紀後、「モノ言う株主」として有名な仕手グループ村上ファンドが、
阪神電気鉄道株の半数近い株を取得していることが分かった。乗っ取りである。

思えば一三が箕有鉄道(後の阪急)を創業した時、
先行する阪神電車のことをライバルと呼ぶのもおこがましいほど、実力差は際立っていた。

一三は、打倒阪神に執念を燃やした。
その間、両社の合併をすすめる声が何度かあがっては消えたが、それはすべて阪神が阪急を吸収する
前提だった。

平成の乗っ取りに際して、阪神が助けを求めたのは阪急HDだった。
阪急は公開買い付けを実施し、村上ファンド所有分も含めて阪神株の過半数を取得、同社を子会社とした。

ここにおいて長年にわたる阪急と阪神の争いに完全決着がついた。

だが泉下の一三がこれを知ったら、かつての自分を高めてくれた強力なライバルの消滅に、
あるいは複雑な思いを抱いたかもしれない。

(終)