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第七話「夢をビジネスにした男 小林一三(4)」

設立の危機に瀕していた箕有(きゆう)電鉄だが、一三は沿線の開発と宅地販売というアイデアに自信があった。
一三は設立発起委員達と話し合い、自らが出資者として発起委員に加わること、そして自分に全権を委任する
ことを承諾させた。

だがその代償として、事業が失敗した場合の担保金として五万円の証書を差し出す契約書にサインしなけれ
ばならなかった。

これはこの事業に人生を賭ける、という意志表明だった。
こうして会社が設立された。
社長は当面空席で、後に北浜銀行の岩下が就任した。

一三は専務として実権を握り、着々と計画を進めた。
必要な資材と機械一式は、三井物産が開業後二年以内の延払いという破格の条件で提供してくれることに
なった。

鉄道技師には、阪鶴鉄道以来の経験のある速水太郎が、実際の工事は岩下の紹介で、当時売出し中の
建設業者大林組があたることになった。

こうして陣容が整った。
工事は順調に進み、予定よりも早い明治四十三(一九一〇)年三月十日、梅田・宝塚間と石橋分岐点・箕面間の
路線が開業することになった。

ところがその矢先、制服にサーベルを提げた警官たちが、会社に現れた。

「お前が小林一三だな」

「そうですが」

「署まで来てもらおう」

その日から苛酷な取調べが始まった。容疑は贈賄である。身に覚えはあった。
当時一三は、梅田から大阪市内へ乗り入れ京阪電鉄と接続する、野江線の計画を進めていた。

その許可申請を、のちに電力王と言われる慶応の友人松永安左衛門に頼み、松永が大阪市助役に賄賂を
贈ったのである。その松永も同時に身柄を拘束されていた。

ちなみに当時の刑法では、収賄は罪に当たるが、贈賄は罰せられない。
だが収賄を立件するには、贈賄側の証言がいる。そのために二人を拘引したのだ。

事情は分かった。証言さえすれば、身柄を解放するとも言われた。
だがそうすれば、他人を罪に陥れることになる。それはできない、と二人は徹底的に頑張った。

結局、松永の先輩で実業家の福沢桃介(福沢諭吉の女婿)が来阪し、松永に代わって検察に事情を話し、
その内容を松永が認めることで、ようやく二人は釈放された。

この結果、大阪市助役はキャリアを棒に振り、野江線の計画も白紙に戻った。
だが一三と松永の絆は深まり、二人は生涯の親友となった。

一三は気を取り直して、電鉄の経営を軌道に乗せるための手を次々に打っていった。

電車開通と同時に沿線の住宅地を売り出す予定で、まず池田室町に二百戸を造営した。

一戸あたり土地百坪、二階建家屋二、三十坪という当時としては画期的な広さである。

それを二千五百円から三千円、頭金二割で十年年賦という破格の条件で売り出したから、たちまち大部分の
区画を販売した。続いて桜井、豊中と開発を進めていった。

また、当時から行楽地として有名だった箕面に動物園を開園した。
さらに宝塚に新温泉を開業し、パラダイスという娯楽施設を建設した。

一三の戦略は一貫している。鉄道を軸とした沿線開発である。
開発によって沿線の付加価値が高まれば鉄道の乗客も増え、それがさらに沿線の価値を高めるという図式だ。

大阪・神戸間というドル箱路線を握っていた先発の阪神電車に対し、梅田・宝塚間という人口の少ない地域を
走る箕有電鉄は、みみず電車と陰口をたたかれていた。

それに対して一三は、アイデアと創造力で対抗したのだ。

これは単なる思いつきではなかった。明治十八年の阪堺鉄道開業によって難波が一大歓楽街となり、
鉄道が沿線に与える経済効果は注目されていた。

一三はその前例を知りつつ、それをさらに効果的かつ積極的に推し進めていったのだ。

懐ろ手で乗客が集まる路線なら、努力の必要はなかった。
後発で不利な環境にあったからこそ、知恵を絞らざるを得なかった。逆境ゆえの成功といっていい。

だが一三はまだ満足していなかった。
経営は軌道に乗りつつあったとはいえ、阪神電車に比べれば、まだまだ弱小だ。
路線の終点である宝塚に、もっと人を集めねばならない。

(これだ!これを宝塚でやろう。向こうが少年なら、こっちは少女でいこう)

三越は、三井越後屋呉服店のことであり、一三の勤めていた三井銀行と同じグループ企業である。
一三はさっそく三越の担当者に面会し、唱歌隊のノウハウを聞きだした。

こうして宝塚唱歌隊が結成された。これがのちの宝塚少女歌劇団である。

尋常小学校卒の少女を、大卒サラリーマン並みの条件で募集したため、海外に売られるのでは、と心配した
父兄までいたという笑い話が残っている。

唱歌隊は翌年、新温泉のイベントで歌劇を上演した。
東京から専門家を招いて研鑽に努めたため、数年後には東京の帝劇で上演するまでになり、
多くの若者の心をつかんだ。

だが、好事魔多し。
唱歌隊が結成されたのと同じ頃、大阪財界全体を揺るがす大事件が持ち上がっていた。

いわゆる北銀事件である。
この結果、一三の元上司で恩人である岩下清周が失脚し、箕有電鉄も存続の危機にさらされるのである。