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第七話「夢をビジネスにした男 小林一三(3)」

日本初の私鉄は、難波と大和川北岸を結ぶ阪堺(はんかい)鉄道で、藤田伝三郎、松本重太郎らが中心と
なって明治十八(一八八五)年に開業された。これが紆余曲折を経て、後の南海鉄道となった。

その十数年後、大阪と神戸を結ぶ阪神電車が設立された。
この発起人には藤田伝三郎、広瀬宰平らが名を連ねている。
阪神電車は全国初の都市間連絡電車として、大きな成功を収めた。

これに刺激されて、大阪・京都間の京阪電車、大阪・奈良間の大阪電気軌道(後の近鉄)が相次いで開業した。
ここに関西私鉄の黄金時代が花開いたのである。

さて、阪鶴鉄道は現在のJR福知山線の原型である。
当初大阪・舞鶴間の鉄道として計画されたが福知山までの許可しか取れず、その路線も結局国営化されて
しまう。

こんな具合だったから、監査役といっても、会社の清算事務が主な仕事だった。
その一方、阪鶴鉄道の解散と並行して、新たな会社の設立事務が進行していた。

それが箕有(きゆう)電鉄である。これは梅田・池田間の路線として阪鶴鉄道が敷設許可を取っていたものを、
本体の国有化にともなって、新たに別会社で運営しようとしたものだ。
新会社の幹部は、ほとんどが阪鶴鉄道からの横滑りだった。

ところが株式相場の大暴落は、ここにも影を落とした。
株式の引受けを承知した者が、証拠金を放棄して権利を手放したいと言ってきた。
十一万株発行して資本金五百五十万株を集める予定が、その半分近い五万四千株が宙に浮いてしまった。

無理もなかった。
そもそも当時の池田は片田舎に過ぎず、わざわざ電車で出かける人がいるとは思えなかったのだ。

重役会の大半は、新会社の前途に悲観的だった。
これまで使った費用は頭割りで分担して、会社を解散しようという声が支配的になった。

しかし一三は、その意見に納得できなかった。
重役たちが小田原評定を繰り返している間に、実際に梅田・池田間の片道三里の道を何度も歩いて往復して
みた。

その結論は、いける!というものだった。

理由の一つは、路線の予定地がなだらかな丘陵地帯にあり、工事上の難所が少ないこと。
そしてもう一つは、一帯の気候が穏やかで景色も良く、将来は住宅地としての需要が見込める、というもの
だった。

卓見だった。だがそれは、守旧の重役たちには容れられなかった。
彼らからすれば、若造が何を夢のようなことを言うか、という程度にしか受け止めなかった。

「小林君、事業に先立つものは、まずカネだよ。カネを集めてから物を言いたまえ」

そう言ったのは、土居通夫だった。
土居は五代友厚に認められて世に出た男で、大阪電燈の社長をはじめ数多くの会社の役員に就任していた。
大阪商業会議所の会頭も二十年以上務め、藤田伝三郎亡き後の大阪財界の重鎮だった。

土居からすれば、小林一三など、ただのひよっこにしか見えなかった。

ここで一三の持ち前の反骨精神が頭をもたげた。彼は事業計画を練り上げた。

その内容は、路線の終点に動物園や温泉などの娯楽施設を建設して、大阪からの行楽客を呼び込む、という
アイデアが一つ。

もう一つは、沿線の宅地開発だった。箕有鉄道は開業を危ぶまれていたため、地価も安かった。
これを今のうちに買って住宅地として売り出せば、それだけで元は取れる。

さらに宅地売却後は、黙っていても彼らが毎日大阪まで通勤してくれる。
つまり、運ぶべき乗客がいないのなら、それを創ってしまおう、という発想だった。

一三はこの計画を北浜銀行頭取の岩下の許に持って行った。

「必ず成功します。どうかこの仕事を私にやらせてもらえませんか」

岩下は一目でこの計画の先見性を認めた。だが彼も商売人だ。わざと厳しい表情をして、一三を突き放した。

「私にやらせてほしいなんて、そんな他人任せの考えではとても無理だ。君ももう勤め人ではないんだ。
不足分の五万四千株、自分で引き受けてやり切る覚悟があるのかね?」

さすがの一三も一瞬言葉に詰まった。
だが、すぐに悟った。
勤め人のうちは、仕事に失敗しても会社が責任を取ってくれる。
それをすべて一身で背負うのが事業家なのだと。

「……あります。私も全財産を投げうって、この事業に当たります。
その代り、どうしても引受けきれない部分は、北浜銀行でお願いしたいのです」

岩下は一三の表情を見た。彼の覚悟が伝わってきた。

「よし、分かった。思う存分仕事をしたまえ。後のことはこちらに任せなさい」

一三はすぐさま金策に奔走した。
大阪だけでなく、東京や山梨の親戚の縁を頼って、株式の引受けを依頼した。
そして何とか一万株近くのメドをつけた。

こうして岩下の援助もあって、不足分の資本金を調達した一三は、新会社の設立発起委員長の田艇吉と
交渉した。

「これで何とか資金のメドはつきましたが、お願いがあります」

「ほう、なんですか?」

「これまでのような小田原評定では、この事業はうまくいきません。私に全権限を与えていただきたいのです」

さすがの田もこれには驚いたが、すぐに反論した。

「それで、もし事業が失敗した場合、金銭上の責任はどうするのですか」

「もちろん、私がすべて引き受けます」

一三は腹に力を込めて言い切った。