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第八話 「公会堂を遺した男 岩本栄之助(4)」

高倉藤平による堂島米穀取引所株の買占めを、栄之助は持ち前の義侠心から見過ごせず、
高倉に真っ向勝負を挑んだ。

互いに意地と意地がぶつかる凄まじい勝負になったが、やがて双方とも資金が枯渇して膠着状態になった。
そこで間に入ったのが、野村徳七だった。

徳七はこの頃、北浜でめきめき力を着けていた。栄之助の親友であり、高倉とも近かった。
彼の奔走で、栄之助が自分の買い株を高倉に譲ることで手打ちとなった。

高倉は堂島米穀取引所の理事長となったが、買占めのために巨額の資金を費やし、栄之助も大汗を
かいたわりに利益はなかった。

いわば双方引き分けだったが、栄之助には「義侠の相場師」という評判が立った。

一方公会堂の建設計画は順調に進んでいた。
栄之助の拠出した百万円を基に、公会堂建設を目的とする財団法人が設立された。
完成後、大阪市に正式に寄贈する手筈である。

財団法人の役員には大阪府知事高崎親章、大阪市長植村俊平をはじめ、岩下清周、土居通夫、橋徳五郎ら
関西財界の名士が名を連ね、顧問に渋沢栄一が就任した。

東京駅や日銀本店などを手掛けた洋風建築の権威辰野金吾が建築顧問、辰野と共同事務所を組む片岡安
が設計監督に就任した。設計は当時珍しかった懸賞付きコンペを行い、一位となった岡田信一郎案を基に、
辰野と片岡が実施設計をした。

当時の主流であるネオ・ルネッサンス方式を基調とする設計で、アーチ状の屋根の両脇に尖塔を配し、
外観には主に赤レンガを用いた。

地上三階、地下一階、総坪数は約二千四百坪という広大なもので、内部には米国製のエレベーター二基、
食料リフトが左右配膳室に各二基があり、蒸気暖房も完備していた。

栄之助は満足した。父のよい供養になる、と思った。
計画はすでに彼の手を離れて動き出していた。大正二(一九一三)年六月、ついに工事が始まった。

その頃栄之助の気持ちは相場から離れていた。
相場で名声を博したものの、直情径行で武士的気質の栄之助は、カネと陰謀、裏切りの渦巻く
北浜の世界に疲れていた。

アメリカの産業と市民生活の実態を知った彼の関心は、むしろ実業の方に移っていた。
そんな折、土居通夫と会う機会があり、そのことを話した。

「ほう、それならウチの役員にならないか。なに、月に何度か出社するだけでいい」

土居は大阪電燈(後の関西電力)の社長だった。こうして栄之助は非常勤の取締役に就任した。
勉強すればするほど、電気事業は将来有望に思えた。

栄之助は常務取締役に昇進したことを契機に、相場から足を洗い、大阪電燈の業務に専念した。
だがわずか数カ月でそれを辞し、修羅の世界に舞い戻ることになった。

それは欧州の世界大戦による空前の上げ相場が原因だった
。欧州での戦争は遠く離れた日本にとっては商売の好機で、モノを造れば飛ぶように売れたのだ。

売方の仲買人たちからは悲鳴が上がり、栄之助は例によって出馬を懇望された。

ふと、かつての父の訓戒が脳裏をよぎった。だがこれまでの行きがかりから、断ることはできなかった。
そして承知した以上は、中途半端なことはできない気質だった。

栄之助は凄まじい買い相場に正面から立ちはだかった。だが、欧州ではまだ戦争が続いていた。
現実にモノの需要がありはっきりとしたインフレ圧力がある中で、一個人がいくら売り浴びせようとも、
蟷螂の斧に等しかった。

この時、野村徳七は買方にまわっていた。親友同士が、正面から激突することになったのだ。
だが以前とは立場が逆転していた。

金策に窮した栄之助は、ある日野村商店を訪れ資金の融通を請うた。
日露戦争後の相場の折のことを恩に着せるつもりはなかったが、友人を頼る気持ちはあったかもしれない。

徳七は不在で、対応した徳七の弟にきっぱりと断られた。考えてみれば当然のことだった。
栄之助はそれを責めなかったが、二度と野村商店の敷居をまたぐことはなかった。

周囲の人たちは、大阪市に寄付した百万円の一部でも、何らかの形で返金してもらうよう勧めた。
だがそんなみっともないことはできないと、きっぱりと断った。

そこが栄之助の潔さであり、商売人としての甘さでもあったかもしれない。
彼は敗北が避けられないと悟った時、すでに覚悟を決めていたのだった。

栄之助はある晩夕食を終えると自室にこもった。
銃声に気付いた家族が駆け付けた時には、片手に数珠、片手に拳銃を持って喉を血まみれにして倒れていた。

枕元に遺書があった。相場は自分一代限りとし子孫は絶対すべからずとし、辞世の句があった。

その秋をまたでちりゆく紅葉哉。その秋とは、公会堂の完成のことだという。

訃報を聞いた野村徳七は、「北浜でただひとりの親友を失ってしまった」と嘆いた。

栄之助の死後も公会堂の建設は続けられ、大正七年(一九一八)十一月に完成した。
落成式は百六十万市民の歓呼の中で挙行され、一般公開では三日間で十万人が押し寄せた。

とくに当時まだ庶民には珍しかった洋食堂とバーは、紅茶一杯洋酒一杯でも大歓迎としたため、
市民の気軽な社交場として大変な評判を博した。

公会堂は太平洋戦争の戦災も耐え抜いた。
空襲によって市内の集会場が減少したため利用者はむしろ増え、終戦後の最盛期には年間八十万人が
集会場を利用した。

そして今も公会堂では各種のイベントが開かれ、レストランは多くの人で賑わっている。
土佐堀川河畔の界隈は、平日は多くのサラリーマン、休日は家族連れで溢れている。

栄之助の親友だった野村徳七は相場の世界で成功を収め、現在の野村証券グループの礎を築いた。
それに対し商売人として遥かに不器用だった栄之助は、公会堂を遺した。

どちらがより成功者で、どちらの人生がより幸福だったのかは誰にも分からない。

(終)