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第八話 「公会堂を遺した男 岩本栄之助(3)」

日露戦争後のバブル相場を背景にした仕手戦で、野村徳七をはじめ売方にまわった仲買人たちは全員破産
の危機に瀕し、彼らの懇請を受けた栄之助は売方として出馬した。

大証株価三百十円が翌月に七百七十四円になるという異様な相場の前では、巨人に挑むアリに等しい行為
かと思われた。だが実は買方もいずれ反動が来ると見て、手持ちの株を売って利益を確定させる時期を
計っていた。

(あの岩本が動くなら、この相場もそろそろ手仕舞いやな)

相場を動かすのは、人の心である。市場は一転して軟調になった。
そこへ兜町(東京市場)で、渡辺治右衛門という有力な買方が売りにまわった、という情報が入った。

それを聞いた大阪の大相場師松井伊助も、売方に転じた。あとはもう、雪崩を打つようなものだった。
買方の誰もが、暴落の前に売り抜けようと必死になった。

こうして最高値をつけた十ヶ月後には、大証株価は九十二円にまで暴落した。売方の大勝利である。
これによって徳七らは苦境を脱し、栄之助も莫大な利益と名声を得た。

だが父の栄蔵は必ずしも喜ばなかった。勝ち過ぎだ、というのである。

「いいか、これを当たり前だと思うな。生きるか死ぬかの大勝負は、生涯に一度だけだと思え。
これからは堅実に日々の商いをすることだ」

この言葉を栄之助は苦い思いで反芻することになるのだが、それはまだ後の話である。

ここで少し余談に入りたい。この明治四十(一九〇七)年の株価の大暴落は多くの人の人生を変えたが、
その一人に前回取り上げた小林一三(阪急・東宝創業者)がいる。

当時小林は十五年勤めた三井銀行を辞め、大阪に向かっていた。
三井時代の上司で北浜銀行頭取の岩下清周の勧めで、日本初の本格的証券会社を立ち上げるためである。

ところが夜行列車で大阪に着いた途端に、相場急落の報に接する。
証券会社の話は立ち消えになり、身体の空いた小林は、解散間際の阪鶴鉄道監査役という閑職に就く。

阪鶴鉄道は梅田から宝塚、箕面を結ぶ鉄道敷設権を持っており、
これを基に設立した新会社が箕有(きゆう)鉄道である。退路のない小林は、これに人生を賭けた。

沿線の宅地開発、宝塚にレジャー施設建設、ターミナルデパートなど、様々なアイデアを駆使し、
小林はこの事業を成功させる。これがのちの阪急・東宝グループである。

歴史に「もし」は禁句だが、この時栄之助が野村徳七の懇請に応じていなかったら……。
この相場で野村は破産し、現在の野村証券グループはなかったかもしれない。

逆に、小林証券グループが誕生していた可能性があるが、
もっともその代わりに、現在の阪急鉄道や宝塚歌劇は存在しなかっただろう。

さて、一躍大阪財界の寵児になった栄之助は、明治四二(一九〇九)年秋に渡米実業団に参加した。
これは前年に米国の実業家を日本に招待したことへの答礼として、米国の実業家たちから招待されたものだった。

日本側は、財界の重鎮渋沢栄一を団長とし、錚々たるメンバーが集まった。
大阪からは大阪電燈社長の土居通夫、大阪郵船社長の中橋徳五郎、それに栄之助の三人である。

九月一日にシアトルに到着した一行は、各地で歓迎を受けながらアメリカ大陸を横断した。
十月二一日ニューヨークに到着するまでの間、五十三都市を訪問した。

この親善旅行で、栄之助はアメリカの進んだ産業の実態を目の当たりにした。
旅行中に渋沢栄一や土居通夫といった財界の巨頭たちの知遇を得たことも大きかった。

さらにカーネギーをはじめアメリカの富豪たちが、積極的に公共事業への寄付や慈善活動を行っているのを
知って、大いに刺激を受けた。

(私もこの辺りで、世の中のために何かできないだろうか)

そんな折、悲報が入った。父栄蔵の突然の死である。
悲しみに暮れる栄之助の心の中で、父の供養として世の中に何かを遺したい、という思いが強くなっていった。

欧州からシベリア鉄道経由で帰国すると、栄之助はすぐに渋沢栄一を訪問した。
渋沢は多忙な中で快く時間を割き、栄之助の話を聞いてくれた。

「それは大いに良いことだ。だが、その志を遂げるためには、君独りの力でなく、多くの人を巻き込んで
いかねばならない。それからお母さんにもよく相談しておくことだ」

栄之助はその助言に従い、母のていに相談した。母も賛成してくれた。

「だけど栄之助、気を付けなさい。お前はもう、他人様から嫉妬される立場なのです。
今回のことも、自分の功はすべて他人に譲るくらいの気持ちでなければいけませんよ」

母の忠言は何よりも身に染みた。
栄之助は北浜銀行頭取の岩下清周をはじめ、大阪の政官財界の有力者に協力を請うた。
その中で徐々に計画が固まっていた。

金額については、栄之助は早くから百万円と決めていた。ではそれで何をするか。
学校を造る案、それを基金として運用益で慈善活動をする案などが浮かんだ。

だが学校の場合、建設後の運営費の問題があったし、百万円の基金では運用益はたかがしれている。
そんな中で栄之助の脳裏には、ある光景が浮かんでいた。
欧米の大都市には、市民が気軽に集える公共の社交場が必ずあった。

(同じものを造れないだろうか。いや、これから必ず必要になるはずだ)

こうして、公会堂建設というアイデアが徐々に形になっていった。
だがその矢先、またしても大掛かりな仕手戦が始まった。
高倉藤平による堂島米穀取引所株の買占めである。

この高倉という男は堂島と北浜で名を馳せた大相場師で、怪物じみた権勢欲と支配欲を持っていた。

高倉は一直線に買い進んだ。それを見て多くの者が便乗して買方にまわった。
それに対して、売方は今度も栄之助の出馬を請うてきた。