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第八話 「公会堂を遺した男 岩本栄之助(1)」

企業の社会的責任(CSR)や社会貢献活動の重要性が、昨今、指摘されている。
被災地への支援など、様々な寄付活動を行う企業も多い。

だがこれは言葉こそ新しいが、古くから日本にあった思想、
例えば近江商人の売り手、買い手、世間の「三方よし」の思想と本質的には同じだろう。

江戸時代や明治時代には、富商が地域の公共活動のための資金を負担することは珍しくなかった。
日本で最初の小学校は、京の町衆の醵金(きょきん)で設立されたのである。

もっともこれは、当時の「お上(おかみ)」が、いかに公共インフラの整備や社会保障に資金を投じていなかったか、
ということの裏返しではあるのだが。

さて、今回取り上げるのは、同じ寄付でも一段スケールの大きい話だ。

大阪の中之島公会堂といえば、府民で知らぬものはない。
国の重要文化財にも指定されている大正洋風建築で、美しさと重厚さを同時に感じさせる稀有な建築物だ。

これはたった一人の男が、当時のカネで百万円(現在の価格で約四十億円以上)を拠出して建設した。
その男の名は、岩本栄之助。

彼が世に出ていた期間はわずか十年ほどで、しかも最終的に事業に失敗したため、
その事績を知る人はいまでは大阪府民でも少ない。ただ、公会堂だけが遺っている。

いったい、どんな男だったのだろうか。

栄之助は、大阪で両替商を営む岩本栄蔵の次男として、明治十(一八七七)年に生まれた。
兄と弟、妹の四人兄弟である。
父は几帳面で口数が少なく仕事に厳しい人で、母のていは愛想がよく細やかな気配りのできる人だった。

父栄蔵は一代で刻苦勉励し、立身した人だった。
ここで栄之助に大きな影響を与えた栄蔵の生涯について触れておこう。

岩本家の先祖は、代々和歌山県海南市下津町鰈川(かれがわ)に住んでいた。
下津町は有田川の北岸に位置し、古くから熊野街道が通る交通の要衝であったが、蜜柑の栽培の他は
これといった産業もない。

次男に生まれた栄蔵は、二十歳の時に大坂へ出た。
安政三(一八五六)年のことで、当時の京大坂では幕末の風雲が荒れ狂っていたが、その中を栄蔵は黙々と働いた。

最初は蝋(ろう)の行商をやり、そこで小金を貯めると両替商に転じたのは、先見の明だった。
土間にむしろを敷いて小金を商うことから始めて、二十年で店を構えた。

間口は十メートル余、表口から裏口まで通り庭がある典型的な大坂の商家の造りで、
店の間には数人の番頭が並んで接客し、その奥に栄蔵が控えていた。

明治五(一八七二)年に初めて編成された戸籍には、すでに栄蔵の名が出ている。
南大組第五区安堂寺橋通二丁目町人、両替商、氏神上難波社、宗門真宗明善寺、とある。

栄蔵は努力だけではなく、先見の明もあった。
明治十一(一八七八)年、東京に続き大阪に株式取引所が開設された時、仲買人となった。

大証での株式仲買人の定員は六十名、鴻池、住友ら当時の代表的な富商が参加していたから、
この時点で栄蔵は、大阪財界でそれなりの地位と信用を築いていたことになる。

栄蔵の飛躍のきっかけの一つは、古金銀の売買だった。
維新後の一時期、価格が低迷していたのを大量に買取り、景気好転後に価格が高騰してから売却した。

さらに大阪商船株がある。これは西南戦争後に群小の海運業者が合併してできた会社だが、対立船会社との
競争や船舶の老朽化などの問題を抱え、市場の評判は悪かった。

だが栄蔵は、今後の交通・輸送機関としての船舶の重要性を考え、積極的にこれを買った。
紆余曲折はあったが、その読みは当たり、大きな利益を得た。

栄蔵は、明治十七(一八八四)年から約十年間、大阪市内四区の両替商総取締役を務めるなど、
同業者の間でも重きをなした。

栄蔵は投機的な取引を避け、常に沈着冷静で理詰めで相場を張った。
その生涯において、商売で他人に迷惑をかけたことも、訴訟に巻き込まれたこともなく、
そんな彼を「北浜の聖人」と人は呼んだという。

栄之助は、厳父と慈母の許ですくすくと育った。
小学校を卒業後、外国語学校を経て大阪市立商業学校(大阪市立大学の前身の一つ)に入学した。

やがて二十歳になり、徴兵検査を受けた。結果は甲種合格。
これは身体強健の証であり、この当時の感覚では非常に名誉なことだった。

地元大阪の第四師団に入隊後は、少尉に任官する。
すでに高等教育を受けていたためであろうが、兵卒からいきなり士官は極めて異例のことで、
並外れて有能だったのだ。

除隊後は父を助けて家業に従事した。
栄之助は次男だったが、十五歳の時に兄が急逝したため、家督を継ぐ立場になった。
栄蔵は息子だからといって甘やかすような男ではなく、厳しく栄之助を仕込んだ。

そんな中で、明治三七(一九〇四)年二月、日露戦争が勃発した。
予備役陸軍少尉であった栄之助は直ちに召集され、原隊の第四師団に復帰した。

第四師団は奥保鞏(おくやすかた)大将の第二軍に属し、遼東半島上陸後、満洲の曠野を転戦した。
遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦と、日露戦争の主な陸戦にはほとんど参加している。

商業実務に堪能だった栄之助は、兵站司令部附副官に任命された。
その働きぶりは満洲軍参謀長児玉源太郎の目にも留まった。この間、陸軍中尉に昇進した。

やがて戦争は日本の勝利に終わり、ポーツマス条約が締結された。