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第十一話「住友中興の祖 広瀬宰平(1)」

時代を超えて存続する企業の条件はなんだろうか。経営理念、技術革新、環境の変化に対応する柔軟さなど、様々なものが挙げられる。

だがそれらすべてを含めて、結局は人ではないだろうか。人材がいてこそ、経営理念が伝えられ、技術革新と変化への対応も可能になるからだ。

いくら創業者が傑出していても、二代目以降に優秀な人材が続かなければ没落する。全盛期に日本の富の過半を握りながら、五代百年で滅んだ淀屋がそのいい例だろう。

それに対して鴻池の場合は、後継者の育成と組織管理が機能して、江戸期を通じて日本屈指の豪商の座を維持し続けた。だがその鴻池さえも、明治維新後は新時代に合わせて事業を改革していく人材がおらず、振るわなかった。

それでは住友の場合はどうだったのだろうか。

住友政友と蘇我理右衛門の義兄弟の契りから始まった住友家は、理右衛門が「南蛮吹き」という銀銅吹き分けの新技術を会得し、銅精錬業で成功を収めた。

二代目の住友理兵衛は父の築いた基盤をさらに発展させ、大坂に本店と吹き所(精錬所)を移し、外国との銅貿易にも参入して巨富を築いた。

三代目の友信、四代目の友芳は鉱山経営に乗り出した。これによって採掘、精錬、販売に至る、銅ビジネスのすべてを掌中に収めたのである。特に伊予国(現在の愛媛県)別子銅山の発見は、莫大な利益をもたらした。

住友は他の豪商とは異なり、銅事業を事業の中核に据え、金融業に距離を置いてきた。それは家祖政友の「浮利にはしらず」という遺訓を、忠実に守ったからである。

しかし時代が下るにつれて逆にそれが足かせになっていく。鉱山の採掘が進むに従い大量の地下水が湧出し、さしもの別子の産銅量も幕末には最盛期の三分の一以下になった。

だが、銅ビジネスにこだわり続けた経営陣は、有効な対策を打ち出せなかった。さらにそこに、明治維新という歴史上の大変動が訪れた。

もしそこで広瀬宰平という男が現れなかったら、住友の歴史は終わっていたかもしれない。広瀬は住友近代化を成し遂げた中興の祖であり、また薩摩の五代友厚の下で活躍した大阪財界の重鎮でもある。では、その生涯をみてみよう。

広瀬宰平は近江国(現在の滋賀県)野洲の北脇家の次男に生まれた。幼名は駒之助。叔父治右衛門は別子鉱山の支配人をしており、九歳の時に叔父に連れられて別子に移った。

瀬戸内海を船で新居浜まで渡り、十三里(五二キロ)の道を歩いてやっと銅山の麓に着く。そこから山道を九里登ったところが、別子銅山の勘場(事務所)だった。

当時の別子では四千人の男女が働いており、さながら山中に忽然と現れた小さな町のようだった。業務は職能による分担制で、銅の採掘は鉱夫、精練は職人の仕事で、勘場では産銅量の記録、資材の手配、米塩の配給、給料計算などを行っていた。

ちなみに当時の商家は、厳然たる階級社会だ。住み込みの小僧から始めて、手代、番頭と階段を一歩ずつ登っていかねばならない。小僧は半人前の雑用係で、先輩に始終怒鳴られ、ミスがあれば容赦なく拳固が飛んでくる。

宰平が別子の勘場で奉公を始めたのは十一歳の時だった。およそ七十人いた店員の最下級である。支配人の甥とはいえ、古株の店員たちは容赦がなかった。

だが彼はそれによく耐えて、懸命に働いた。その甲斐があって徐々に頭角をあらわし、若くして役頭(やくとう)という管理職の地位に就くまでになった。

そんな宰平に、当時の住友家当主の友視(ともみ)は目をかけ、自ら嫁の世話をし、さらに江戸店支配人広瀬義右衛門の養子に入れた。これはもちろん箔付けのためだ。当主の知遇に応え、義右衛門は、ますます職務に精励した。

だが別子の生活は過酷で、最初の妻も二番目の妻も健康を害して亡くなってしまう。三番目の妻を迎えるのは、明治後になってからである。彼はこの家庭的不幸に耐えて仕事に没頭し、元締めという支配人に次ぐ地位に昇った。

そんな折、住友家中に不幸が起こった。宰平を抜擢した第十代当主友視が没し、息子の友訓(ともくに)が後を継いだが、その友訓もまもなく二十四歳の若さで世を去ってしまったのだ。しかも、子どもがいなかった。

このままでは住友家は断絶してしまう。大名であれば取り潰しになるところだ。大坂の本店の重役たちは、他家から養子を迎えてこの難局を乗り切ろうと考えていた。

「昨日まで見ず知らずの他人を戴いて、命を懸けて奉公できるわけがないでしょう」

宰平は、その頃別子の支配人になっていた清水惣右衛門に相談した。

「それは確かにそうだが、他に方法があるまい」

「友訓様の実弟の、友親(ともちか)様がおられるではないですか」

「いや、しかし友親様は、すでに浅田家に養子になっているのだぞ。それを今更こちらの都合で戻してくださいなどと、そんな図々しいことは、浅田家がとても承知すまい」

「それはやってみないと分からないでしょう」

宰平は清水と協力して店の重役たちを説得する一方、何度も浅田家を訪れて事情を説明し、ついに友親を復籍させ当主にすることに成功した。宰平の名が住友家中に轟いた瞬間だと言っていい。

一方、別子銅山の経営は困難を極めていた。鉱山の老朽化によって採掘コストは上がり、産銅量は減少していた。なのに、幕府府の銅の買上げ価格は据え置かれたままだった。さらに年間一万二千石にも及ぶ鉱山労働者の飯米の調達も大きな負担となっていた。

もはや別子を閉山せざるをえないのではないか。そんな声さえ漏れる中で、宰平は再建の期待を背負って、別子銅山の総支配人に任命された。三十八歳の時のことである。