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第五話 「大阪を救った男 五代友厚(4)」

明治二(一八六九)年七月四日、五代は辞表を政府に提出し、大阪に転居した。

自らの手で新しい産業を興し日本の近代化の先駆けをなそう、という決意は固かったが、
まず、どこから手を付けるべきか。

五代が着手したのは、金銀分析所の開設だった。
幕府・諸藩の旧貨幣や贋金に至るまでを、欧州で学んだ最新の冶金術で分析し、溶解して、正当な価格で
造幣寮に納めた。

おそらくこの構想は、在官時に造幣寮を設立した時からのものだろう。
造幣寮に地金局が置かれて金銀の買い入れをはじめたのはこれより後のことで、それまでこの事業は
五代の独占状態で、かなりの利益をあげたらしい。

次に手を付けたのは出版事業だ。長崎の本木昌造という人物が西洋人から活版技術を学んでいたが、
五代とは長崎伝習所時代からの旧知の仲だった。

五代は、本木の弟子二名を大阪に招き、自ら出資し、斡旋して、大阪活版所を設立した。
事業自体は必ずしもうまくいかなかったが、五代の先見性がうかがわれる。

鉱山の開発にも乗り出した。
貿易立国論者だった五代には意外なようだが、分析所では諸鉱山の鉱石の分析もしていたから、
そこで鉱山業に脈あり、とみたのだろう。

明治四(一八七一)年に奈良県の天和銅山を買収したのを手始めに、
滋賀県の蓬谷鉛山、福島県の半田銀山などを次々と手がけ、またたく間に一大鉱山王となった。

五代はこの鉱山部門を統括するため、「弘成館」を設置した。
組織は事務部門と鉱山部門に分かれ、複式簿記を用いるなど、従来とは異なる近代的な経営組織だった。

一方当時の明治新政府は、征韓論による対立で薩摩の西郷隆盛、土佐の板垣退助らが下野し、
さらに台湾出兵をめぐって長州の木戸孝允も下野し、危機に瀕していた。

五代は政治的には、西郷率いる武勲派とはそりが合わず、大久保と非常に親しかった。

「西郷どんはああいう人だから仕方ないが、木戸、板垣とは手を組まんと政府がもたんだろう。よければ、
おいが周旋(しゅうせん)しよう」

大久保は同意して、いわゆる大阪会議が開かれた。
その準備会合の舞台となったのが大阪の五代邸で、大久保は一か月前から五代邸に滞在していた。

こうして木戸、板垣が政府に復帰するのだが、一年も経たないうちに板垣が辞職し、この体制は崩壊する。
この後は熊本の神風連の乱を皮切りに、各地で反乱が起きた。

そしてついに明治十(一八七八)年二月十五日、西郷隆盛が鹿児島で挙兵した。西南戦争の始まりである。
熊本城攻囲、田原坂の戦いなど、政府軍は緒戦こそ苦戦したが、徐々に物量で圧倒し、城山で西郷が
自刃して乱は終結した。

だが、勝者であるはずの大久保も、西郷の死から一年も経たないうちに、東京の紀尾井町で暗殺された。
この維新の元勲二人の相次ぐ死は、時代の大きな転機となった。

その頃、実業家として成功を収めた五代は、産業界全体のことを考え始めていた。

すでに西南戦争前の明治九年、政府によって廃止されていた堂島米会所を、鴻池善右衛門、三井元之助ら
大坂の豪商と協同で、株式会社として再開させていた。

さらに明治十一年六月、大阪株式取引所を設立した。
これは後の大阪証券取引所(大証)の前身である。
筆頭株主は五代の他、鴻池、三井、広瀬宰平らであった。

ちなみに広瀬宰平は、住友別子鉱山の総支配人から、住友本家の総理事となり、住友の中興の祖と言われ
た人物である。大阪の財界活動では、五代の手足となってよく働いた。

そして同年八月には、広瀬宰平、藤田伝三郎らと協議して、大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)を
設立した。五代は推されて、初代会頭となった。

また実業教育の面では、明治十三年に大阪商業講習所を設立し、大阪の商家の子弟に簿記、算術、
経済などを教えた。これは後の大阪市立大学である。

五代の眼は次に、北海道に向かっていた。
明治十四年、五代は腹心の財界人広瀬宰平らと共に、北海道の物産を清国に輸出する目的で
関西貿易社を設立した。

ところが、その関連会社に開拓使の官有物が三十九万円、三十年賦という条件で払い下げることが明らか
になり、大騒ぎになった。
開拓使には過去十三年で千四百万円の税金が投入されており、それと比較して不当に安いというのだ。
開拓使長官が五代と同郷の黒田清隆だったことも、非難の対象になった。

これは現代で言えば、国の事業に民間の活力を導入するようなものだっただろう。
千四百万円投資したから、官有物にそれだけの価値があるとは限らない。
五代は私利私欲をはかる人間ではなく、あくまで日本のために北海道開拓事業を軌道に乗せるつもりだった。

この事件は、薩長閥に対する大隈重信ら佐賀閥の政治闘争という側面があった。
官有物払下げは中止されたが、薩長閥は政治的に反撃し、大隈ら反対派を罷免した。

この事件は五代にとって黒星だったが、長い年月をかけて培った信用は揺るがず、その後も神戸桟橋会社や
阪堺鉄道など様々な事業に協力している。

五代は明治十八(一八八五)年九月二十五日、滞在中の東京で没した。五十歳だった。
以前から体調を崩していたが、黒田清隆と飲み歩いた後、具合が悪くなったという。

松方正義の提案で、葬儀は大阪で行われ、会葬者は四千三百人にも及んだ。

没後、財産を整理したところ、負債が百万円以上あった。
五代は政財界に顔が広く様々な事業に協力しており、蓄財する機会はいくらでもあったはずだが、
そういうことにはまったく興味がない男だった。

五代は死の直前に、近親者に依頼した。

「おいの戸籍を、鹿児島から大阪に移してくれ。死ぬ時は、大阪の人間として死にたい」

だから私たちは、五代のことを、鹿児島生まれの大阪人、と呼んでも構わないのである。

(終)