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第五話 「大阪を救った男 五代友厚(3)」

大阪府判事となった五代は、得意の経済政策で手腕をふるった。
まず、大阪開港に備えて港湾を整備し、外国人居留地を建設した。

当時来日していた欧米の商人の中には、不正行為や横暴な振舞いをする者が多かったが、
五代は外国人だからといって容赦せず、厳正に取り締まった。

また、旧知のモンブラン伯爵から阪神間の電信設置願いが、アメリカ人実業家から京都―大阪―神戸間の
鉄道敷設願いが出された。

五代はこのどちらも断っている。
電信や鉄道といった重要なインフラの建設は、外資ではなく、日本の資本で行わなければならない、
と考えたのである。

大阪の造幣寮の建設も、五代の功績だ。
新政府として、新たな貨幣制度を導入する必要に迫られたのだが、そのための十分な技術がなかった。

この時五代は、旧知の英商人グラバーを通じて、香港から英国造幣局の中古機械を購入した。
これが現在の大阪造幣局の前身である。

なお、当時の造幣局は貨幣の鋳造のみを行っていたのではなかった。
鋳造に必要な硫酸、ソーダ、石炭ガス、コークス等も製造し、電信・電話設備や天秤、時計等も、すべて
局内で製作していた。いわば、文明開化の一大拠点だったのである。

さらに、外国との貿易や金融を行う大阪通商会社・為替会社を設立するにあたって、五代は鴻池善右衛門や
広岡久右衛門などの豪商を説いて、協力を取り付けた。

ちなみに、NHKの朝の連続テレビ小説「あさがきた」のモデル、広岡浅子の嫁ぎ先がこの広岡家である。
この久右衛門は、おそらく浅子の義父であろう。

五代友厚と広岡浅子との間に直接交流があったことを示す資料はないが、少なくとも、五代と広岡家とは
仕事を通じて深い関係があったのである。

さて、明治二(一八六九)年五月、五代は突然、会計官権判事として横浜転勤を命じられる。
これは左遷とも言われるが、当時の財政担当者だった大隈重信のたっての人事という説もあり、
はっきりしない。

この時大阪の官民あげて、五代留任の運動が起こったことは第一回で述べた。
その嘆願書の要所を意訳すると、次のようになる。

「大阪の人間は旧習になじんで新規の商法を企てるものがなかったが、(五代が)万国普通の公法を説き、
商法の得失を論じ、赤子に諭すように教え導いたので、大阪の商人はようやく旧習を脱しようとしている。
そんな折に(五代が)転勤するのは、船の櫂を折るようなもので、人々は愕然として気力もくじけ、創業の
規律もたたなくなっている」

五代が大阪経済界の指導者として、よほどの信用を得ていたことが分かる。とはいえ、
それで公の人事が左右されるはずもなく、五代は横浜へと赴任した。

だが、そのわずか二か月後、五代は新政府に辞表を提出するのである。
その理由は様々に推測されているが、どうやら薩摩の武勲派の妬みと確執があったらしい。

当時、新政府の役人たちが一部の商人と結託して贅沢三昧をしている、という批判があった。
五代は私腹を肥やす人物ではなかった。

だが、郷里薩摩の武士気質からすれば、商人は卑しむべき存在だった。
また五代には薩英戦争時に捕虜となり、汽船三隻を失ったという経歴上の傷もあった。

五代自身、こうした国許からの批判に嫌気がさしたのではないか。
また、実業の世界に転じ、自ら新たな産業を興してみたい、という野心もあったはずだ。

五代はその再出発の地に大阪を選んだ。かつて大阪府判事を務め、旧知の地だった、ということもある。

だが、それだけではなかっただろう。
天下の台所と呼ばれた、日本経済の中心である大阪で、存分に自分の腕を振るってみたかったのではないか。

ところが、維新後まもない大阪の経済は大きな危機に直面していた。

一つ目の原因は、廃藩置県によって藩がなくなったことにより、大阪の豪商たちが所有していた、
大名貸しの巨額の債権が事実上棒引きされてしまったことである。

二つ目は蔵屋敷の廃止である。
かつて諸大名の年貢米は全国から大阪の蔵屋敷に集められ、堂島米会所で売買された。
商人たちはこの蔵屋敷の米の売買を委託され、手数料を得ていたのだ。
堂島米会所の販売量は年間二百万石にも及んでいたという。
ところが明治政府は成立早々、米会所と蔵屋敷を廃止してしまった。

三つ目は、明治政府に度々貸された御用金である。
明治元年一月に三百万両という莫大な金額を要求されたのを皮切りに、様々な名目で御用金を徴収した。
表向きはあくまで借り上げだったが、少なくとも、手持ちのキャッシュが払底したのは間違いない。

要するに、これまでのビジネスの構造がまったく変わってしまったのだ。

かつての大阪の豪商たちの主要顧客は藩であり、大名だった。
領地から回漕される莫大な年貢米の売買を取り仕切り、手元資金が不足すれば融通する、という
ビジネスモデルで三百年間商売をしてきた。

それが維新直後の数年で、藩も大名も消滅し、税金は米ではなく現金で納めることになった。
太平の世に慣れた商人たちは、時代の急激な変化についていけなかったのだ。

そういった中で、五代はどのようにして事業展開をしていったのだろうか。
それは次回に譲りたい。