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第五話 「大阪を救った男 五代友厚(2)」

慶応元(一八六五)年三月、留学生と随員あわせて十九名が欧州に向けて出発した。
当時はまだ幕府が健在で、公然と使節派遣はできず、そのため全員が変名を使っていた。

この留学生派遣を斡旋したのはグラバーだった。
彼のチャーターした汽船を薩摩まで差し回し、そこで乗船した。
グラバーの部下の英国人も同船し、ガイドを務めた。

一行は五月二十九日、ロンドンに到着。海の彼方の国を見るという少年時代の夢は実現したのである。

五代はさっそくマンチェスター、バーミンガムを視察し、木綿紡績機械と小銃、短銃などを購入した。
その後、フランス、ベルギー、ドイツ等を視察旅行する。

ここで五代は「カンパニー」というものが、欧州の経済活動で重要な役割を果たしていることに気付いた。

「そうか!多くの人から広く資金を募ることで、一人や二人の商人の手ではできない大きな事業も可能になる。
失敗しても、自分の出資した分を失うだけで済む。『カンパニー』を作って、大いに商売をやったことで、
欧州諸国は発展したのだ!」

五代は早速、商社建営について建白書を書き上げ、ロンドンから郵送した。

この提案はすぐには実現しなかったが、五代がロンドンにいたまさに同じ時期に、長崎で亀山社中という、
日本で最初の商社を設立した男がいた。坂本龍馬である。

五代と坂本には共通点が多い。
坂本の神戸海軍操練所での師の勝海舟とは、五代は長崎伝習所時代に知遇を得ている。
活動拠点はどちらも長崎で、その上、薩摩藩は亀山社中を後援していた。

五代が欧州から帰国の船中にいるとき、坂本は京都におり、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允の間を
取り持ち、薩長同盟を成立させた。時代はこの時から、倒幕に向けて、風雲急を告げることになる。

五代は帰国後、御納戸奉行挌で外国人掛を命じられ、長崎に駐在して、倒幕のための武器の買付けや、
翌年のパリ万博の出展準備に当たった。

また長崎の小菅ドック建設も、五代の見逃せない功績だ。
日本初の本格的な造船所で、薩摩藩家老小松帯刀、英商人グラバー、それに大阪の豪商達の共同出資に
より実現した。

同じ頃、坂本は土佐の後藤象二郎と会談し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的位置付けにし、
名前も海援隊と改めた。だが、商社活動は必ずしもうまくいかなかった。

坂本の持ち船のいろは丸が、紀州藩の明光丸と衝突して沈没した時、五代は紀州藩から賠償交渉の調停を 依頼されている。坂本と話せる相手として、白羽の矢が立ったのだ。

その間も、時代は激しく動いている。坂本は後藤象二郎と組んで、大政奉還を実現させた。
ここに、事実上の明治新政府が成立したが、その直後に、坂本は暗殺されてしまう。

そして翌明治元(一八六八)年一月三日、鳥羽伏見の戦いが勃発。薩長を中心とする新政府軍が勝利。
最後の将軍徳川慶喜は大阪城から江戸に退去、恭順の姿勢を見せた。

そして一月十一日、まさにこの国内的にも対外的にも最も困難かつ微妙な時期に、発足まもない新政府を
震撼させた事件が起こった。神戸事件である。

神戸の居留地付近を通行していた備前藩士の隊列の前を、フランス人水兵が横切ったことをきっかけに
互いに発砲が始まり、フランス人水兵に負傷者が出た。

英仏米等の列強は居留地の安全を脅かされたとして強く抗議し、責任者の厳重な処罰を求めて陸戦隊を
上陸させ、兵庫港に停泊する日本の汽船を拿捕した。

「備前藩の行動は日本の習慣では当然ではないか。それに相手方には死者も出ていない」

「しかし、江戸ではまだ慶喜が健在だ。ここで外国と揉めるわけにはいかん」

そこで五代が急遽長崎から呼び出され、交渉に当たることになった。
五代は列強の領事と備前藩の間を奔走し、備前藩の隊長を切腹させ、何とかこの事件を落着させた。

その数日後の二月十五日、今度は堺で、土佐藩の部隊とフランス兵との間に武力衝突が起こり、
フランス側に十一名の死者が出た。

フランス公使ロッシュは、翌十六日午後四時までにすべての遺体を引き渡すよう要求したが、
遺体の多くは湾内に沈んでいた。そこで五代は付近の漁師たちを集めた。

「遺体一つにつき三十両の報奨金を出す。必ず時間までに引揚げてくれ」

もちろん、その経費は身銭を切ったのである。
この件は、土佐藩主の謝罪と賠償金の支払い、犯人全員の処刑という条件で決着した。

ところが堺の妙国寺での切腹の席で、十一人まで進んだところでフランス側の検視役が余りの凄惨さに
耐えきれず退席した。五代は直ちに残った九人の切腹を中止させ、フランス側にもその旨を承知させた。

さらにその一週間後の二月三十日、今度は英国公使バークスが、天皇に謁見するために御所に向かう
途中で、二人の男に襲撃された。

護衛の薩摩藩.士中井弘が直ちに一人を切り伏せ、土佐の後藤象二郎も駆け付けて加勢したため、
襲撃は失敗に終わり、パークスは無事だった。

この時、五代は各国公使に事件について説明し、彼らの不安や疑心を除いた。
そして三月三日に改めて、パークスと天皇との謁見を成功させたのである。

この戊辰戦争の最中に起こった一連の事件は、一歩間違えば新政府の基盤を揺るがしかねなかったが、
五代は手堅い手腕を見せてこれを解決した。

これらの功績が認められて、五代は大阪府判事に任ぜられ、また川口運上所(税関)の事務も執ることに
なったのである。