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第五話 「大阪を救った男 五代友厚(1)」

大阪の北浜は、東京の兜町と並び称される金融センターである。
この北浜を含む大阪城の西方一帯は、かつては船場(せんば)と呼ばれていた。洗馬、が語源だという。

北の梅田、南の難波が発展したのは明治以降のことで、それ以前は船場が大阪の商業の中心だった。

北浜という地名は、船場の北の浜、という意味だという。
それはこの地が、京都から淀川を下って大阪に下る、舟運の拠点であったことを示している。

大阪証券取引所ビルは、堺筋と土佐堀通の交差点のひときわ繁華な一角にある。
すぐ北側を土佐堀川が滔々(とうとう)と流れ、その向こうには中之島公会堂が見える。

取引所ビルの正面に巨大な銅像があり、道行く人を睥睨(へいげい)している。
その像の生前の名を、五代友厚、という。
大阪証券取引所の前身に当たる、大阪株式取引所を設立した人物である。

五代は薩摩藩出身の開明派の経済人で、維新直後の困難な時期には新政府の外国事務掛として幾多の
外交案件の解決に尽力する一方、初代大阪税関長や大阪府判事として、大阪経済の近代化の基盤を築いた。

明治二年に五代が横浜異動の辞令を受けた時、大阪の官民あわせて151名の有力者の連名で留任嘆願書が
出された、という逸話があるほどだ。やがて五代は官を辞して実業家となり、また後進の経済人を育成した。

『夫婦善哉』で知られる大阪の作家織田作之助は、「明治の大阪の指導者として、開発者として、友厚の右に
出る人は一人もいない」と語っている。

五代は、維新直後の混乱の中で衰退の危機にあった大阪を救ったと言われている。
先年、NHKの連続テレビドラマ『あさがきた』に登場し、ディーン・フジオカの好演もあって、五代人気が沸騰し
た。

では、その五代友厚とは、いったいどういう人物だったのだろうか。
まず、薩摩藩士時代から、その足跡をたずねてみたい。

五代才助こと友厚は天保六(一八三六)年、薩摩藩の儒者五代秀尭(ひでたか)の次男に生まれた。
父は島津斉彬(なりあきら)の側近で、町奉行を兼ねていた。

友厚が十四歳の時、斉彬が秀尭に、舶来の世界地図の模写を命じた。
友厚は父に代わってこれを二枚模写し、一枚を主君に献上し、もう一枚を自分の書斎に飾ったという。

この世界地図を毎日眺めているうちに、まだ見ぬ遠い世界への憧れが胸中に生じた。

「世界は何と広いことか。ああ、おいもいつか、海の果ての国々を訪ねてみたい」

五代が十七歳の時に島津斉彬が藩主となった。
斉彬は外国と積極的に貿易をし、西洋の技術を取り入れて産業を興そう、という考えの持ち主だった。

安政四(一八五四)年、幕府はオランダ士官を招いて長崎に海軍伝習所を設立し、諸藩の士を選抜して
海軍技術を学ばせることにした。

五代は薩摩藩から選ばれて派遣された。
伝習所には勝海舟、榎本武揚らそうそうたる顔ぶれがいた。
なかでも勝は、斉彬と同じく開国貿易論者で、五代も影響を受けた。

やがて斉彬が急死し、保守主義者の久光が藩主となった。
五代もいったん帰国を余儀なくされたが、これまでの信念は変わらず、思い切って上層部に進言した。

「今後の我が藩には蒸気船が必要です。お許しいただければ、長崎で購入して参ります」

五代は伝習所時代に、英国商人グラバーをはじめ、長崎の商人たちと懇意になっていた。
汽船購入の成功によって、五代は御船奉行副役となり、長崎駐留を命じられた。

やがて五代は直接上海に行けば、安く購入できることに気が付く。
そしてグラバーの協力によって上海に渡り、汽船を購入した。海外渡航の夢は、まずかなったのである。

さて、五代に大きな危機が訪れた。島津久光の大名行列を英国人四人が横切ったことを咎め、薩摩藩士が
これを殺傷するという生麦事件が起こったのである。

激怒した英国は鹿児島湾に艦隊を派遣し、薩英戦争が始まった。
五代はグラバーを通じて英国と和平交渉を試みようとし、長崎から急ぎ鹿児島に戻ったが、果たせない。

それどころか、自ら購入した三隻の汽船を退避させようとしたところを英国艦隊に拿捕され、五代は捕虜となり、
汽船はすべて焼かれてしまう。

それをきっかけに、英国艦隊と薩摩側砲台の間に、激しい砲戦が行われた。
薩摩側は大きな被害を受けたが、英国も陸戦隊を上陸させるには至らず、痛み分けに終わった。

五代は横浜で釈放されるが、幕府からは開戦の責任者の一人として追われ、藩内からは英国への内通を
疑われるという始末で、一時潜伏生活を余儀なくされた。

しかし、逆境の中でも五代の信念は揺るがなかった。
実際に英国と戦ったことで藩の上層部の眼が覚めたと考え、長文の上申書を提出した。

その内容は、上海と直接貿易して生糸や茶を輸出し、
その利潤で欧州に留学生を派遣し、また欧州から技術者を招聘する、といったものだった。

要するに、貿易で得た富を再投資して新たな技術を導入し、それによって生産を増やしてさらに富を得る、
という仕組みである。これを詳細な見積もりと共に論じた。

この上申書は藩当局の心を動かし、五代は帰参を許された。
そしてその翌年、五代の提案に従い、薩摩藩は欧州に留学生を派遣したのである。