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第六話「忘れられた巨人 藤田伝三郎(5)」

ニセ札事件の冤罪を乗り越えた伝三郎は、さらに一回り大きい人物となった。
日本全体のためを考え、財界の有力者たちと共同で、様々な事業を立ち上げていった。

例えば、現在の東洋紡績の前身にあたる大阪紡績株式会社だ。
英国から最新式の機械を導入し、夜間は電灯を点けて創業したため、大変な評判になった。

日本初の民間鉄道会社である阪堺鉄道(現南海電鉄)も、伝三郎が関係して設立したものだ。
この成功が後の阪神、阪急などの私鉄のモデルとなった。
この語、神戸・下関間を結ぶ山陽鉄道の設立にも深く関わった。

日本土木会社は、大倉喜八郎、渋沢栄一らと設立した総合建設会社である。
国の歳出が約八千万円だった時代に、資本金二百万円という極めて大きな規模の会社だった。
この結果、藤田組の土木・建築部門は新会社に移され、社員も転籍した。

大倉商会とはさらに、内外用達会社も設立した。
これは両社の軍需物資の調達部門を統合して、別会社にしたものだった。

この結果藤田組は、これまでの収益の柱だった二つの事業部門を失うことになった。
だがその頃には、藤田組の事業の中心は鉱山事業へと移っていた。

とくに秋田県の小坂鉱山は、幾多の技術的困難はあったが、のちに日本一の銅産出量を誇り、
藤田組に大きな利益をもたらした。

この鉱山事業を実質的に任されていたのが、次兄の久原庄三郎とその息子の房之介である。
最初に述べたように、房之介は後に独立して久原財閥を築き政界にも進出した。

岡山県児島湾の干拓も一大事業だった。
江戸時代から営々と干拓が行われ、明治後も多くの人がその重要性を認識しながら、
リスクの高さゆえに計画がまとまらなかった。

伝三郎は、藤田組単独で五千町歩(約五十平方キロ)の干拓を行う計画をたてた。
一企業の利益ではなく、この事業が日本の社会全体の利益にかなうと信じたからだった。

漁民の反対、技術上の困難、資金の枯渇、様々な問題と闘いながら、第一期の工事が完成したのは着工から
八年後のことだった。
工事は伝三郎の死後も続けられたが、敗戦による財閥解体と農地解放のため農林省に引き継がれて、
昭和三十八年にすべて完成した。

入植した農民たちは、干害、塩害、堤防の決壊など幾多の困難に直面したが、
当時としては画期的な大規模機械化農業が営まれたのである。

実業人として活動する傍ら、伝三郎は芸術を愛した。
能楽と日本舞踏は師匠について本格的に稽古をした。
茶道も相当な腕前で、網島の邸内には茶室があり、午後は点茶をするのが日課だった。

経営に疲れた心気を休めるため、という理由もあっただろう。
だがそれ以上に、芸術は彼にとって心の栄養であり、生きるための糧(かて)であった。

古今東西の美術品の蒐集は、趣味の域を超えていた。
およそ一流の骨董商で、藤田邸の門をくぐらない者はいなかったと言われている。

伝三郎は、事業が思わしくなく手元にカネがない時でも、いい出物があればためらいなく買った。
それは彼に言わせれば、維新後、零落した名家旧家が売り出した秘蔵の品が、海外に流出するのを
憂えたためであるという。

いわば、公益のための蒐集だというのだが、それはどこか建前で、本当の理由は彼が心から芸術を
愛していたため、ではなかっただろうか。

伝三郎が生涯に集めた古美術品は、一万点を超えると言われている。
それは網島の邸内の七棟の蔵に収められた。
伝三郎は、いつかそれを整理し公衆の展観に供したい、という願いを持つようになったが、
それは生前にはかなわなかった。

伝三郎は、明治四十五(一九一二)年三月三十日、自宅で息を引き取った。七十一歳だった。
葬列は二十町(約二キロ)にも及び、数万人が参列した。

伝三郎の死後は長男の平太郎が跡を継いだ。
平太郎も父にならい、古美術品の蒐集を続けたが、昭和十五(一九四〇)年に没した。

戦後、財閥解体により藤田家の事業は分割されたが、藤田家のコレクションを収めた蔵は、大阪空襲にも
耐え抜いた。それを後世に残すため、昭和二十六(一九五一)年、財団法人藤田美術館が設立された。

藤田美術館は常設の展示を行っていないため、一般にはあまり知られていない。
だが、その所蔵品は国宝九点、重要文化財五十二点をふくむ数千点という宝の山である。

その実力の一端を示す出来事が、平成二十九(二〇一七)年にニューヨークであった。
藤田美術館所蔵の中国美術の名品三十一点がオークションにかけられたのだ。

当初の落札予想額はせいぜい五十億円だったが、
フタを開けてみると、総額二億六二八〇万ドル(約三百億円)という記録破りの額になった。
中でも清の乾隆帝が所蔵していた、南宋時代の画家陳容の『六龍図』だけで、約五十六億円という値がついた。

この収益を老朽化した施設の改修費に充て、藤田美術館は二〇二一年度までの長期休業に入った。

藤田邸のあった網島は、近松の名作『心中天網島』で治兵衛と小春が心中した場所である。
当時は市街地から離れた、淀川沿いの静かな一角だった。

かつての藤田邸は、現在では太閤園、藤田美術館、藤田邸跡公園に分割されている。
付近は国道がとおり、京橋ビジネスパークも近いため、往時の静寂はない。

だが、よく晴れた日に散歩に行くと、淀川の流れだけは以前と変わらず滔々(とうとう)と流れ、
陽光の照り返しを受けて川面がきらきらと光るのが見える。

(終)