「包装」を通じ、あらゆる産業に貢献します。
>>トップページ  >>>NEWS  >>TOPページ
 ・新商品情報
 ・エンゼルコフィン
 ・ほかんくん
 ・宮下隆二のコラムTOP
 ・津島稜の世相を斬るTOP
 ・News VoL.1〜VoL.20
 ・News VoL.21〜VoL.40
 ・最新のNews一覧
2/1

第六話「忘れられた巨人 藤田伝三郎(4)」

明治七(一八七四)年秋、伝三郎は故郷を離れてから初めて、萩に帰省をした。
萩でも屈指の資産家だった藤田家は思わぬ不幸続きですっかり財産を失っていた。

母親の亀は、零落する藤田家への憂慮と、死ぬ前に一目伝三郎に会いたいという思いから、昨年二人の兄を
大阪にやり、帰省を促していた。

ところが伝三郎は、ちょうど鉄道事業が緒についたばかりで、大阪を離れられなかった。
今年になってようやく事業が軌道に乗ったので、母の許へ駆けつけたのだった。

五年ぶりに見る母は、すっかり年老いていた。伝三郎の胸は痛んだ。
さっそく帳簿を調べたところ、負債の額は当初想定していたよりも少なかった。

伝三郎は数日走り回って、借財の返済と事業の整理を済ませた。
その後、久しぶりに母と向かい合って、自分の志や今後の予定を話した。

「お母さん、私は大阪で文明開化の時代を切り拓く仕事をしています。以前の手紙の言葉は忘れていません。
商売人として正道を歩んでいきますから、安心してください」母は伝三郎の手を取り、涙を流して喜んだ。

「本当に良かった。藤田の家の商売はこれでおしまいだけど、別の形でお前がそれを継いでくれるのだから。
後はお前の出世を楽しみに、余生を送らせてもらうよ」

伝三郎はなおも数日滞在し、旧友や親族の家を訪れていたが、その最中に母親が倒れた。
急報を受け、裸足で駆けだして帰宅した時には、もう虫の息だった。

亀はまもなく伝三郎に見守られながら息を引き取った。
長年張り詰めていた気が、息子の顔を見たことで一気にゆるんだのだろう、と医師は言った。

最愛の母に、これから成功した姿を見てもらおう、と思っていた矢先のことだった。
伝三郎は晩年になってこのことを回顧して、「一生の恨事」と語っている。

母の死を乗り越え、伝三郎はさらに事業に邁進した。
大阪鎮台、鉄道局、大阪府などを主な顧客とし、仕事は順調だった。

長兄の鹿太郎と、久原家に養子に行っていた次兄の庄三郎も加わり、藤田組は兄弟会社という形になった。
さらにそこに、旧幕臣で前山口県令の中野梧一も加わった。

藤田組の大きな飛躍のきっかけになったのは、西南戦争である。
維新の元勲西郷隆盛が鹿児島で起こした反乱は、七か月にも及んだ。

その間、膨大な軍需物資の需要が生じた。
武器弾薬の他にも、軍服、軍靴、糧食、さらに人夫に至るまで、ありとあらゆる物が必要になった。

短期間に大量の物資を集め、しかも不良品は許されない。
それができるだけの実力を持つ商人は限られていた。藤田組は、その数少ない一つだった。

西南戦争で巨利を博したのは、一に海上輸送を一手に請け負った岩崎弥太郎の三菱、次が藤田組と
言われている。ちなみに三番目が、大倉喜八郎の大倉商会だった。

この頃から伝三郎の許には、様々な相談が持ち込まれるようになり、自社のことだけではなく、大阪財界全体の
ことを考える機会が増えてきた。

当時の大阪財界のリーダーは、五代友厚である。
旧薩摩藩士で、幕末に上海、欧州に渡航して見聞を広め、高杉晋作、坂本龍馬らとも交友のあった人物だ。

大阪商法会議所(現大阪商工会議所)の設立に際しては、伝三郎も中野梧一と共に尽力した。
初代の会頭には五代が、副会頭には中野と住友の広瀬宰平が選ばれた。

そんな矢先、思いがけない事件が起こった。
数十名の警官が、突如として伝三郎の屋敷を取り囲んだのである。
伝三郎だけではなく、藤田組の幹部すべてが一斉に拘禁された。

容疑はニセ札づくりである。伝三郎にとっては、全く身に覚えのないことだった。

このニセ札事件は、大蔵省に納められた税金に精巧なニセ二円札が混じっていたことが発端だった。
内務省警視局がひそかに捜査を進め、驚くべき情報を入手した。

それは藤田組の元使用人の訴えで、長州系の高官井上馨が欧州でニセ札を大量に刷り、
藤田組がそれを国内に持ち込んだという荒唐無稽な内容だったが、当局はそれを信じた。

伝三郎の逮捕により、大阪の経済界は動揺した。
この時五代友厚が、「ニセ札があれば当方で責任をもって引き換える」と言明した。
それが功を奏し、動揺は次第に収まった。

取り調べは三か月間にも及んだが、知らないものは白状しようもない。
藤田組の帳簿や書類はすべて押収され徹底的に調べられたが、肝心のニセ札は一枚も発見されなかった。

伝三郎たちは無罪放免となり、誣告(ぶこく)をした元使用人は懲役七十日の刑に処せられた。
そして事件の真犯人も、三年後に逮捕された。

伝三郎と直接交際のある財界人や取引先は、今回の事件の真相を理解してくれた。
だが世間の中には伝三郎のことを、黒い政商と捉える向きもあった。

伝三郎は公式には、この事件について一切弁明をしようとしなかった。
元使用人に裏切られたことも、自らの不徳としたためだった。

同時に伝三郎は、今回の事件を通じて、自分が他人から妬まれる立場になったことを知った。

だが、たとえどんな困難があろうとも、「不義なことはするな」という亡き母の教えは守り通すつもりだった。