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第六話「忘れられた巨人 藤田伝三郎(3)」

伝三郎はある日、大阪城に同郷の山田顕義を訪ね、そこでよもやま話をするうちに、兵隊に履かせる靴がない、
という話になった。

当時はまだ靴は一般に普及しておらず、外国から輸入していた。
そのため、兵隊の多くは洋式銃で武装しながら、足元はわらじ履きという状態だった。

「どうだ、仕事もせずぶらぶらしているくらいなら、いっそ靴を造ってみないか。造った靴はすべてこちらで
引き取ろう」

そう山田に勧められた伝三郎は、その気になった。
さっそく、皮革加工業を営む太鼓屋又兵衛という者に軍靴のサンプルを渡して試作品を作らせたところ、
結果は上々だった。

そこで大阪高麗橋二丁目に店舗を構え、東区大川町(現北浜)に工場を設けて、軍靴製造業に乗り出した。
さらに、軍靴以外の様々な軍需品も納入することになった。

こうして伝三郎は藤田組を設立し、実業家としての第一歩を踏み出した。

とはいえ、最初からすべてうまくいったわけではない。
一定の品質の靴を大量に生産することは容易ではなく、試行錯誤の連続だった。

そんな折、郷里の母から手紙が届いた。そこにはこう記されていた。

「金はいつにても儲かるものに候。不義なことすべからず候」

お金儲けはいつでもできる。それよりも、不正に手を染めてはいけないよ。

子を思う母の言葉に伝三郎は感奮し、それからますます志を高く持ち、日夜刻苦勉励した。
その甲斐あって、事業は軌道に乗っていった。

飛躍の基礎を築いた伝三郎に、さらに大きな話が舞い込んできた。
大阪・京都間の鉄道敷設事業である。

発足間もない藤田組がこれだけの仕事を受注できたのは、同じ長州出身で経済界に大きな影響力を持つ
井上馨の口利きと思われるが、直接の窓口は同じ井上でも勝の方だろう。

井上勝は文久三(一八六三)年に、伊藤博文や井上馨らと共に英国へ留学した。
伊藤と井上馨は、長州が四カ国艦隊の攻撃を受けるというニュースを聞いて途中帰国したが、
井上勝は残留してロンドン大学で鉄道、鉱山、造幣などを学んだ。

明治元年に帰国すると井上勝は新政府入りし、鉄道官僚として新橋・横浜間、
そして大阪・神戸間の鉄道敷設事業の陣頭指揮を執った。

その井上から、鉄道敷設請負業者になることを勧められた時、さすがの伝三郎もためらった。
なにせ数年前までは、醤油や酒の醸造の経験しかなかったのである。

「言っておきますが、私は、鉄道のことは何も知りませんよ」

「なに、それでいい。全体的な図面はわしが描く。技術的な指導は外国人の専門家が担当する。レールや
枕木は、政府が支給する」

「では、私は何をやればいいのです?」

「工事にはゆうに千人を超える労働者がいる。それを募集して、まとめ上げてくれ」

「分かりました。引き受けましょう」

とはいえ、独力でそれだけの人数を集める力は、伝三郎にもなかった。
熟慮の末、丹波屋と上州屋という関西でも名だたる顔役を使うことにした。
この二人が配下を総動員して募集したおかげで、規定の数の熟練労務者を集めることができた。

伝三郎はそれを三十組に分け、組頭を任命し、隊旗を作らせた。
各組の人数は三十人から五十人である。労務者には藤田組の徽章と、組番号を記した木札を付けさせた。

それを総監督が指揮する。
その地位に伝三郎が自ら就くこともできたが、あえてそれをせず、信頼できる部下を抜擢して任せた。

(鉄道は確かに大事業だが、だからといって、私が現場の采配まですべて振るっていたら、全体が見えなく
なってしまう)

これが生涯を通じた伝三郎の流儀だった。
つまり、自分がこれはと見込んだ男に、事業を一切任せてしまうのである。
そしていったん任せた以上は、とことん信用した。

伝三郎自身は、本部である自宅に籠って動かない。
そして全国各地から送られる報告書に目を通し、決裁をし、指示を出した。

醸造業の経験しかなかった伝三郎が、軍靴の製造から、鉄道、鉱山、土木建築、干拓と様々な事業で
成功できた秘訣はここにあった。つまり全体を統括する能力である。

今回の鉄道事業でも、まず自分の人脈を使って仕事を取り、丹波屋と上州屋を使って労務者を集め、
それを組織して責任者を決めるところまでが、伝三郎の仕事である。

そこまですると、後は全面的に任せてしまう。任された人間はその知遇に報いようと必死に働いた。
伝三郎の人を見抜く眼力があればこそだが、このやり方が結果的に多くの人材を育て、事業を成功に
導いたのだった。

明治六(一八七三)年十二月に着工した京阪間の鉄道敷設工事は、三年二か月後、総工費二百七十六万七千円を
費やして完成した。
無事故だった。

だがその完成を祝う前に、伝三郎は悲しみに堪えねばならなかった。
実家の破産と最愛の母、亀の死である。